高天神城(たかてんじん)
 別称  : 土方城
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸
 交通  : JR東海道本線掛川駅よりバス
       「土方」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           築城の経緯についてはさまざまな伝承がありはっきりしない。一般には、15世紀
          初頭〜16世紀初頭のいずれかの時期に、今川氏によって築かれたと考えられて
          いる。永正十年(1513)までに福島助春が「土方」の城に入っていたことが『大福寺
          文書』に記されており、この土方城が高天神城を指すものとみられ、記録上の初出
          とされている。助春については、後北条氏重臣北条綱成の実父である福島正成と
          同一人物ともいわれるが、詳細は定かでない。
           天文五年(1536)の花倉の乱により福島氏が没落すると、小笠原春義が高天神
          城主となった。春義の父長高は信濃守護小笠原貞隆の長男だったが、父が次男
          の長棟を溺愛したことから廃嫡され、出奔して今川家臣となっていた。春義以降の
          長高流小笠原氏は、高天神小笠原氏と呼ばれている。
           永禄十二年(1569)、三河の徳川家康が今川氏真を掛川城に包囲すると、春義
          の子氏興は徳川氏に寝返った。氏興は同年中に死去し、跡を子の氏助(長忠)が
          継いだ。
           翌元亀元年(1570)ごろから徳川氏と武田氏が敵対関係に入ると、高天神城は
          対駿河の前線拠点となった。翌二年(1571)には、武田信玄が2万5千と称する
          大軍勢をもって高天神城を攻めたが、落とすことができず撤退している。この戦い
          については異説もあるが、いずれにせよ信玄を退けた城として、高天神城の堅城
          ぶりが世に示されることになった。
           天正元年(1573)に信玄が没すると、跡を継いだ勝頼は諏訪原城を築いて遠江
          への攻勢を強めた。翌二年(1574)六月、勝頼自ら高天神城攻略の兵を動かすと、
          今度も氏助らは城をよく守った。しかし、家康は後詰の援軍を送らなかったため、
          1か月近くの籠城戦の末、ついに氏助は城を開いて降伏した。氏助は信興と改名
          して国替えとなり、このとき降伏を拒んだ城将の1人大河内政局は高天神城内の
          岩牢に幽閉された。信玄でも攻め落とせなかった高天神城を攻め落としたことは、
          勝頼の名声を押し上げることにつながった。城代には重臣横田尹松が充てられた。
          尹松は、政局の節義に感じ入り、密かに配慮をしていたと伝わる。
           天正三年(1575)の長篠の戦いで勝頼が大敗すると、家康は反転攻勢に出て
          諏訪原城を攻め落とした。遠江国内に浮く形となった武田方の高天神城に対し、
          家康はさらに横須賀城などいくつもの付城を築いて締め付けを強化した。この間、
          新たに城将として今川旧臣の岡部真幸(元信)が入れられている。
           天正八年(1580)十月、家康は満を持して高天神城を攻囲し、兵糧攻めにした。
          城方は勝頼に後詰を求めたが、今度は勝頼が北条氏に背後を脅かされていた
          ために援軍を送れなかった。城は翌九年(1581)三月まで持ちこたえたが、逃亡
          および餓死する城兵が続出した。三月二十五日、真幸以下城兵の多くが決死の
          覚悟で打って出て、玉砕した。このとき尹松は脱出して帰国し、政局は岩牢から
          救出されている。見殺しともいえる形で高天神城を失ったことは、皮肉にも勝頼の
          声望を著しく失墜させることになった。
           落城後、そのまま廃城となったと考えられている。


       <手記>
           高天神城は、ほぼ独立山塊のようになっている小笠山山稜の末端の一支峰を
          利用して築かれています。俗に「高天神を制する者は遠江を制す」とまでいわれ
          る要衝とされていますが、高天神城自体は東海道や海岸線など主要な往還から
          は、離れたところに位置しています。ですが、裾の広い小笠山の稜線を抜ければ
          東海道筋に出没することができ、また当時の海岸線は今よりずっと内側にあった
          とされています。とくに高天神の南の浜野浦は、中世から軍港として利用されて
          いたそうです。
           このように遠江が係争の地となっている間は、高天神城は戦略上の重要拠点と
          いえますが、ひとたび遠江一帯が平定されてしまうと、政治・経済上はとりたてて
          利点のない城といえます。そのため、家康が労をかけて攻め落とした後、あっさり
          と廃城となっています。
           車の場合は北麓の搦手口に駐車場があります。徒歩の方は、せっかくですから
          南麓の大手から登った方が良いでしょう。いずれにしても山自体はそれほど高くは
          ないので、さほど時間もかからず主城域にたどり着くことができます。
           城は大きく東城と西城の2つの峰にまたがっています。本丸は東城にあるとされ
          ていますが、城名のもとと思われる高天神社は西城の頂部にあります。おそらく、
          今川氏時代は東城のみが城域で、徳川氏の時代に西城まで拡張され、その際に
          高天神城と呼ばれるようになったものと推測されます。
           本丸と地続きの御前曲輪が鞍部を隔てて本丸と同じかやや高いくらいの位置に
          あったり、西城の頂部下の腰曲輪が二の丸と呼ばれていたりと、曲輪の呼び方に
          個人的に違和感がありますが、曲輪配置自体は実に効果的と思われ、実戦本意
          の縄張りといわれるのも納得です。とくに西城北尾根の西側面から北側へめぐる
          横堀は、城跡好きなら誰でも興奮してしまうことでしょう。
           もう1つ、高天神城を堅城たらしめているのは、水の得やすさというところにある
          と思われます。城中には井戸曲輪のかな井戸と搦手口の三日月井戸のほか、
          大手口には今も溜池があるように沢水が得られたはずです。
           遺構の残存状況だけでなく、整備についても余計な工事がなされていないので、
          満足度のかなり高い城跡であるといえるでしょう。

           
 本丸跡。
本丸跡の土塁。 
 本丸と御前曲輪の間の鞍部。
御前曲輪。 
 三の丸。
三の丸から海岸線方面を望む。 
 本丸下の的場曲輪。
的場曲輪奥にある大河内政局石窟跡。 
 東城と西城の間の鞍部にある井戸曲輪。
西の丸の高天神社。 
 西の丸背後の堀切。
西端の馬場平。 
 西の丸下にある二の丸。
二の丸脇の袖曲輪。 
 二の丸の堀切。
二の丸下の空堀。 
 西城北尾根の堂の尾曲輪。
堂の尾曲輪と井楼曲輪の間の堀切。 
 井楼曲輪。
北尾根西側面の横堀。 
 西城南尾根先の堀切その1。
その2。 
 搦手口の三日月井戸。
搦手門跡。 


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