名古屋城(なごや)
 別称  : 金鯱城、金城、柳城、蓬莱城など
 分類  : 平城
 築城者: 徳川家康
 遺構  : 曲輪、石垣、櫓、門、濠など
 交通  : 市営地下鉄名城線名古屋城駅下車


       <沿革>
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより、清洲城主であった福島正則が安芸広島へ加増転封と
          なり、尾張には徳川家康の四男松平忠吉が入れられた。忠吉は同十二年(1607)に28歳で没し、
          家康は九男義直を後継とした。ただし、このとき義直は7歳の子供で、家康とともに駿府城で暮らし
          ていた。
           実際に義直が入国したのは、慶長十四年(1609)であった。義直入国に際して、家臣山下氏勝は
          清洲城に代わる新城築城を提案した。lこのとき候補として挙げられたのは、小牧山古渡そして
          那古野の3古城であった。家康は自ら城地を那古野と決し、翌十五年(1610)から西国の諸大名を
          動員しての天下普請が始められた。
           那古野は織田信長ゆかりの地とはいえ、当時は忘れられたような荒れ野となっていた。築城に
          際しては清洲城から使える資材を悉く運び、清洲城下の町屋や寺社も徹底的に移転された。この
          大規模な移転は「清須越し」と呼ばれ、今度は逆に清洲が廃れることになった。
           普請に際しては作事奉行に小堀遠州政一、大工頭には安土城建築で知られる岡部又右衛門、
          天守台造営には加藤清正といった壮々たる顔ぶれがそろえられた。慶長十七年(1612)までに
          大天守が完成し、義直は元和二年(1616)に入城した。この前年には大坂夏の陣により豊臣氏が
          滅亡し、徳川家の天下が定まっていた。普請はなおも続けられ、元和六年(1621)ごろにようやく
          二の丸御殿が完成した。以後、政務は二の丸で執られるようになった。
           城は戦火を受けることなく明治維新を迎え、最後の藩主徳川慶勝は、藩財政の窮状から天守の
          破却を願い出た。しかし、天守群と本丸御殿の取り壊しは行われず、城内に鎮台が設置された。
          金鯱は宮内庁に献上され、各地の博覧会やウィーン万博で展覧された。
           明治二十六年(1893)、本丸一帯が宮内庁の管轄となり、名古屋離宮と命名された。昭和五年
          (1930)に名古屋離宮は廃止され、名古屋市に下賜された。天守など建築物は国宝に指定された
          が、太平洋戦争の空襲により、天守や御殿はじめ多くの建物が焼失した。現在の天守は、昭和
          三十四年(1959)に外観復元されたコンクリート製のものである。


       <手記>
           天下普請の名城だけあって、最初の感想は「広い!」でした。名古屋城の特徴として、面積に
          比して縄張りがシンプルなことが挙げられます。ほとんど横矢(石垣の屈曲)がない石垣や濠の
          線に沿って一周すると、地図上や目測よりもやたら長く感じられます。このシンプルでだだっ広い
          縄張りは、馬出が曲輪として発達・完成されていることとも相俟って、攻城戦が大砲主体に切り
          替わっていく近世城郭においての1つの到達点なのだと思います。
           さて、名古屋城といえば一般的には天守と金鯱で知られていますが、中世城郭ファンとしては
          エレベーターつきのコンクリート建築にはまったく興味がないので、天守閣には一歩も入りません
          でした。むしろ面白かったのは、主だった枡形門には小門をくぐって正面に、必ず清正石はじめ
          巨石が配されていること(入城者を圧倒する意味合いがあった)や、本丸の石垣をよ〜く見ると、
          天下普請だけあってさまざまな大名家の家紋や刻印が見られることです。ボランティアガイドの
          人たちが、これらの巨石や刻印をスルーしているのが不思議で仕方ありません。他の近世城郭
          にもめったに見られない特徴ですので、訪れる際には石垣に注意して見てください。
           また、本丸御殿の復興計画があるようで、大々的に宣伝していました。復興は至極結構なの
          ですが、その資金をなにかと観光客から寄付させようとしているあたりが、さすが名古屋精神と
          いったところでしょうか。他の自治体は、苦しい懐からなんとか観光の目玉にしようと頑張って、
          おらが町の城を復興しようとしているのに、幼児の臓器海外移植の募金活動ように自分の懐は
          痛めず人々の好意に訴えようとするやり方はいかがなものかと思います。これが高度成長期の
          遺産であるコンクリートの塊の天主閣を壊して木造復興天守を建てようとまでいうのであれば、
          まぁ喜んで千円は寄付したんですけどね。

          (追記)
           2022年に、本丸御殿が一部復元された名古屋城を再訪しました。内部は「本当にこんな豪華
          絢爛だったのか」と疑いたくなるほどキンキラキンのゴージャスで、今日の名古屋人のルーツの
          ようなものを感じてしまいました。
           一方で、この間に浮上したのが天守閣の木造復元問題で、本丸御殿の陰になってやや見え
          づらくなった大小天守が少々いじけてしまっているようにも映りました。かつての姿を偲ぶのが
          復元建造物の目的であり魅力であるところ、私にはそれを損なってでも自分たちを最優先しろ
          という障碍者団体の主張には共感できません。「誰でも享受できる」というのは努力目標であり、
          常に満たし得るものではないことを理解していただきたいところです。

           
 大天守、小天守と本丸御殿跡。
御殿復興後の本丸。 
 本丸御殿の車寄。
本丸御殿内部のようす。 
 同上。
同上。 
 天守台石垣の「加藤肥後守 内小代下総」刻印。
大天守を外側から。 
 西南隅櫓。
東一の門の清正石(左)。
 東南隅櫓。
脇坂家?本丸石垣の刻印。 
 東一之門跡。
二の丸の空堀。 
 同上。
正門(西之丸榎多門跡)。 
 西之丸と御深井丸の間にある鵜の首
 (土橋状に切れ込んだ部分)の切れ込み。
清洲櫓こと西北隅櫓。 
 北側から天守閣を望む。
 那古野城跡とされる二の丸の石垣。 
 名鉄東大手門駅地上の外堀跡。


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