勝幡城(しょばた)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 織田信定
 遺構  : なし
 交通  : 名鉄津島線勝幡駅徒歩10分


       <沿革>
           清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の織田信定によって、永正元年(1504)ごろに
          築かれたと伝わる。信定は、今日では文明十四年(1482)の清洲宗論において記録の
          みられる織田弾正忠良信の子とする説が有力である。ただし、良信の親父については
          清洲城主で下四郡守護代の織田大和守敏定ないし、その子とされる敏信などといわれ
          ているが、いずれも年代が合わず、信長につながる織田弾正忠家の出自には不明な
          点が多い。信定は勝幡城を拠点に津島の港を手中に収め、その経済力によって勢力を
          拡大した。
           信定の子信秀は、天文七年(1538)に今川氏豊の那古野城を奪って移った。これに
          先立つ天文二年(1533)、信秀は勝幡城に飛鳥井雅綱や山科言継らを招き、蹴鞠会を
          開催した。かつては、信秀の那古野城奪取は天文元年(1532)のこととされていたが、
          『言継卿記』にはこの蹴鞠会に氏豊も参加していたことが記されており、今日では誤り
          とされている。これに伴い、それまで那古野城で誕生したとされてきた天文三年(1534)
          生まれの信長の出生地も、勝幡城とする説が有力となっている。
           那古野城奪取後の勝幡城には、武藤掃部助雄政が城代として入った。弘治元年(15
          55)、その雄政も野府城に移され、まもなく勝幡城は廃城となったものとみられる。


       <手記>
           上の図に示した2か所に、城址碑や説明板が設置されています。また勝幡駅前には、
          推定復元模型や信秀・土田御前・信長親子の像があります。
           二重の堀に囲まれた単郭の館城だったとされており、復元模型や古絵図と見比べる
          限り、遺構どころか河道の付け替え等により地形そのものが残っていないようです。
          衛星写真などを眺めた感じでは、おそらく日光川を挟んで沖神社のあたりまでが城域
          だったのではないでしょうか。
           織田弾正忠家はじまりの地としては、少々残念な現状かなとは思います。ちなみに、
          勝幡駅および勝幡町は愛西市にありますが、勝幡城跡は稲沢市になります。

           
 勝幡城跡の碑と説明板(南側)。
勝幡城址碑(北側)。 
 日光川のようす。
 おそらく勝幡城の中心部を貫いています。
勝幡駅前の推定復元模型図。 
 同じく駅前の信秀・土田御前・信長親子の像。


BACK