那古野城(なごや) | |
別称 : 柳の丸 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 今川氏親か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線名古屋駅より地下鉄またはバス利用 | |
<沿革> 那古野の地には今川氏の庶流那古野氏がいたとされるが、城との関連は不明である。一般には、 今川氏親が大永年間(1521〜28)に尾張に進出した際の拠点として築いた、「柳の丸」に端を発する とされる。この柳の丸には、氏親の末子で義元の弟にあたる今川氏豊(系譜には異説あり)が封じら れた。柳の丸がいつから那古野城と呼ばれるようになったかは明らかでない。 天文七年(1538)ごろ、勝幡城の織田弾正忠信秀が那古野城を奪い氏豊を追放した。信秀は連歌 を通じて氏豊に接近し、あるとき那古野城内で急病と偽って倒れ、心許していた氏豊が信秀の家臣を 城内に招き入れたところ、城を占拠されてしまったとされる。 従来、この略奪劇は天文元年(1532)のこととされ、信長は同三年(1534)に那古野城で生まれたと されてきた。しかし、同二年(1533)に信秀が勝幡城で蹴鞠会を催した際、氏豊も参加していたことが 『言継卿記』に記されており、今日では同七年説が有力となっている。そのため、信長についても近年 では勝幡城で誕生したと考えられている。 信長が生まれてまもなく、信秀は古渡城を築いて移り、幼い信長が那古野城主となった。その信長 も、弘治元年(1555)に清洲城に居城を移した。那古野城には一族の織田信光や家老林秀貞などが 入ったが、やがて廃城となった。 廃城後の那古野は忘れられたように寂れたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が那古野の地に新城 築城を計画すると、旧那古野城址は新生名古屋城の一部として取り込まれた。 <手記> 信長ゆかりの城として知られる那古野城は、名古屋城の二の丸付近にあったとされ、石碑と案内板 が設置されています。当時の遺構らしきものは見当たりません。那古野城は名古屋台地の西北端に 位置しており、とくに北側は崖に近い落ち込む地形と、御深井池から続く湿地帯により要害性を有して いたようです。 それを示すように、名古屋城は西側との比高差がかなりあるのに対して、東側はほとんど地続きと なっています。名古屋城本丸付近はかなり土を盛って造成されているようで、那古野城が台地の角に 築かれた中世の典型的な城であったことは、今でも偲ぶことができます。 |
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名古屋城二の丸庭園の那古野城址碑と案内板。 | |
那古野城東側近辺。 名古屋城西側と異なり、高低差が殆どありません。 |