清洲城(きよす) | |
別称 : 清須城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 斯波義重 | |
遺構 : 土塁、石塁跡 | |
交通 : 名鉄犬山線新清洲駅より徒歩10分 またはJR東海道本線清洲駅徒歩15分 |
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<沿革> 尾張守護斯波義重によって、当時の守護所下津城の別郭として応永十二年(1405)に 築かれたと伝わる。文明八年(1476)、下津城が戦乱で焼失して以降、尾張の守護所と なった。 戦国時代に入り、尾張国では守護代織田氏の勢力が伸長し、斯波氏は形だけの守護 となった。清洲城もいつしか、下四郡守護代清洲織田氏の居城となった。同家は、織田 大和守家とも呼ばれ、織田信長の主家にあたる。信長の父信秀は、一時期清洲織田氏 の織田達勝と争い、これを逐って清洲城に居したともいわれる。 達勝の跡を継いだ織田信友は、天文二十三年(1554)に家老坂井大膳と謀り、守護 斯波義統を殺害した。これを好機として、義統の遺児義銀を擁した信長は信友を攻め、 翌弘治元年(1555)に信長の叔父織田信光の謀略により、信友は清洲城で殺された。 信長は、居城を那古野城から清洲城に移し、改修を加えた。永禄三年(1560)の桶狭間 の戦いでは、信長らはここから出陣した。永禄六年(1663)、信長は北の斎藤義龍との 戦いに備えて居城を小牧山城に移し、清洲城は番城制となった。 天正十年(1582)、本能寺の変で信長・信忠父子が横死すると、織田家の後継者選び が清洲城で行われ(清洲会議)、再び清洲が表舞台に登場することになった。尾張国と 清洲城は信長の次男信雄に与えられた。信雄は当初伊勢長島城を居城にしていたが、 同十三年(1585)の地震で長島城が大きな被害を蒙ったため、多重の堀や天守を造営 する改修を行った上で、翌十四年(1586)に清洲城に居城を移した。 天正十八年(1590)の小田原の北条氏攻めに伴う論功行賞で、信雄は関東へ移った 徳川家康の旧領への転封を拒否したため、豊臣秀吉の勘気を蒙り改易された。清洲城 には豊臣秀次が入り、文禄四年(1595)に秀次が切腹した後は福島正則が入った。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により正則が安芸広島へ転封となると、尾張 を重視した家康は、四男の松平忠吉を清洲に封じられた。しかし忠吉はまもなく死去し、 続いて家康九男の義直が入封した。2年ほど清洲藩が存在したが、義直自身は幼少の ため家康とともに駿府にあり、清洲城に入ることはなかった。 いざ義直が入国するという段になって、家康は清洲城に代わる新城の築城を決意し、 慶長十四年(1609)から天下普請による名古屋城の建造が始まった。建材はもちろん 城下町の町屋までことごとく徹底して名古屋へ運ばれ、この移転は「清洲越し」と呼ば れた。名古屋城御深井丸西北櫓は別名清須櫓と呼ばれ、清洲城天守を転用したもの ともいわれる。 名古屋移転によって清洲城は廃城となり、周囲は「思いがけない 名古屋ができて 花の清洲は 野となろう」と歌われたそのままに廃れていった。 <手記> 信長の居城であったというだけでなく、新幹線や高速道路から容易に望める模擬天守 で一般にも知られる城です。この模擬天守は、バブル期にいくつも建てられた城郭「風」 天守閣で、実際の城の建物とは関係なく、場所も当時の本城域と異なっています。 本丸は模擬天守の対岸、新幹線北側の清洲城址公園内にあり、天守台と伝えられる 土盛りの高台があります。公園の北には発掘で発見された石垣遺構を復元したものが 展示されています。また、新幹線を挟んで南側の公園には、信長の割と有名な銅像が 建っています。 ただ明確な遺構はとくに残っておらず、縄張りに取り込まれていた五条川の流れのみ が当時の地勢を伝えています。ちなみに、「清洲」も「清須」でも両方とも当時から併用 されていたようです。 往々にして城跡を破壊して建てられる模擬城郭風建造物ですが、清洲の場合は微妙 に主城部とずれて建てられているため、まだ良心的かな、と思います。 |
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模擬天守。 | |
復元展示石垣。 | |
通称「天守台」。城址碑と信長顕彰碑があります。 |