高原諏訪城(たかはらすわ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 江馬氏
 遺構  : 曲輪跡、堀切
 交通  : JR高山本線飛騨古川駅または猪谷駅より
      バスに乗り、「スカイドーム神岡(後者)」
      または「殿村(前者)」下車徒歩25分


       <沿革>
           戦国大名江馬氏の居城とされる。江馬氏は平清盛の異母弟経盛の子輝経を祖とすると
          される。また、『飛州志』によれば輝経は北条時政に仕え、田方郡江馬に住したことから
          江馬小四郎と名乗ったとされるが、江馬(江間)小四郎は時政の子義時の呼び名であり、
          信憑性には疑問が呈されている。江馬氏が飛騨へ下向した時期や経緯なども定かでなく、
          その系譜には不明な点が多い。
           史料上は、応安五/文中元年(1372)に江馬但馬四郎が幕府から山科家領を確保する
          よう命じられたのが初出とされる(『山科家文書』)。また、延徳元年(1489)には万里集九
          が「高原」に入り、江馬氏から饗応を受けたことが『梅花無尽蔵』に記されている。このとき
          集九が滞在したのは下館と考えられているが、高原諏訪城がいつごろ築かれたのかは
          明らかでない。
           戦国時代に入り、飛騨国司姉小路家および守護京極氏の影響力が低下すると、南飛騨
          の三木氏と並び、江馬氏も戦国大名化した。永禄七年(1564)、当主江馬時盛は武田氏に
          臣従したが、子(養子とも)の輝盛は三木氏と通じて上杉氏方に傾いた。武田信玄は重臣
          山県昌景を派遣し、輝盛派を押さえこんだ。遅くともこのころまでには、詰城としての高原
          諏訪城が築かれていたものと考えられる。元亀四年(1573)に信玄が没すると、輝盛は
          時盛を殺害して家督を奪った。
           天正十年(1582)十月、本能寺の変で織田信長が横死した後の混乱期に際して、輝盛
          は飛騨の覇権を巡り姉小路頼綱(三木自綱)と八日町で決戦に及んだ(八日町の戦い)。
          しかし、この戦いで輝盛は討ち死にし、江馬勢も総崩れとなった。翌日、姉小路軍は高原
          まで攻め入り、防御もおぼつかないうちに高原諏訪城は落ち、大名江馬氏は滅亡した。
          その後の高原諏訪城については不明である。


       <手記>
           下館背後に伸びる山稜の南端付近が高原諏訪城跡です。南西麓から、林道が延びて
          いて、城の付け根で峠を越えます。すれ違い用の待避スペースがちらほらあって駐車は
          難しくありませんが、の向こうではダムか何か建造中なのかダンプカーがひっきりなしに
          行き交っているので注意は必要です。また、林道のほかにこれといった歩道は見当たら
          なかったので、徒歩で訪れる際はやはり林道を大回りしなければならないようです。
           峠からは登山道が整備されていて、すぐに二重堀切のお出迎えを受けます。その先は
          主城域との間に小ピークが1つあり、頂上および稜線上の東側にだけ土塁が設けられて
          います。ただ、そこまで防御を意識している感じはなく、あるいは移動時の風よけといった
          ものかもしれません。
           小ピークを越えると堀切が1条あり、主城域の斜面には竪堀も見られます。注目すべき
          は北東尾根先で、3段ほどの削平地の下に、左右2本の竪堀がつながったV字状の堀が
          あります。この堀切とも竪堀ともつかないV字堀はとても印象的なのですが、武田・上杉
          どちらの影響を受けたものなのか、なんとも興味深い遺構です。
           一方、主城域の中心部は主郭とその下をぐるりと囲む帯曲輪の2段から成っています。
          主郭の西辺には、虎口状の凹部があります。国史跡として整備されているだけあって、
          神岡市街側の樹木はいくらか伐採されて眺望もなかなかです。
           主城域のさらに先端側は、規模の大きな堀切を挟んで、もう1つ城域があります。ただ、
          こちらは未整備のようで、はっきりとした道はないので多少の藪を踏み分けて進みます。
          すると、草葉の向こうに人の気配が…。行ってみるとおじいさんがいて、ナメコ採りに来て
          いたそうです。その足取りは慣れたもので、私も日頃の運動不足を痛感せざるを得ません
          でした。
           こちらの曲輪群はピークから一二三段に腰曲輪が続き、先端にこちらもV字堀を設けて
          います。また、南西端近くに虎口状の開口部があり、近年はここが大手口とみられている
          ようです。
           全体として、曲輪の総面積はそこまで大きくはないのですが、堀の造作がとにかく印象
          に残ります。本当に江馬氏が作ったの?と思うほどですが、飛騨を二分する勢力ともなる
          と、このくらいまではイケるということなのでしょう。

           
 下館から高原城跡(右手奥)を望む。
付け根側の二重堀切。 
 小ピークの土塁。
 小ピークと主城域の間の堀切。 
 主城域斜面の竪堀。
主城域北東尾根の腰曲輪群。 
 その下のV字堀。
主郭下の帯曲輪(副郭)。 
 主郭の石碑。
主郭の四阿と説明板。 
 主郭西辺の虎口状地形。
主郭からの眺望。 
 主郭南側の堀切。
先端側頂部の曲輪。 
 腰曲輪と土塁。
腰曲輪群を上から。 
 虎口状の開口部。
 大手口か。
先端側の竪堀。 
 先端下のV字堀。


BACK