高坂館(たかさか) | |
別称 : 高坂刑部館、高坂陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 高坂氏か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 東武東上線高坂駅徒歩10分 | |
<沿革> 在地領主高坂刑部大輔の居館と伝わる。高坂氏は秩父平氏流武蔵江戸氏の 庶流とされるが、詳しい系譜は定かでない。そもそも高坂刑部大輔という人物の 存在は史料からは確認できず、南北朝時代の人とも、戦国時代の北条氏家臣 ともいわれはっきりしない。 天正十八年(1590)に徳川家康が関東に入封すると、徳川家臣加賀爪政尚が 武蔵国比企郡などで3000石を与えられ、高坂館を居所とした。加賀爪氏は扇谷 上杉家の分家である八条上杉満定の子政定が、今川範政の猶子となって遠江 に土着したことにはじまる。 政尚の子忠澄は、江戸南町奉行や大目付に任じられて功を重ね、最終的に 9500石まで加増された。忠澄の子直澄は、徳川家光の小姓として父とは別に 2000石を与えられ、父の死後その遺領と合わせて1万1500石の大名となった。 こうして高坂藩が成立したが、遠江国にも所領があり、同国の掛塚にも陣屋を 設けたことから掛塚藩とも呼ばれる。 直澄の甥で養子の直清は、隣領の旗本成瀬正章と境界争いを起こし、天和 元年(1681)に改易となった。これにより、高坂館(高坂陣屋)も廃された。 <手記> 都幾川河岸の台地角に設けられた城館で、現在は高済寺となっています。 境内の西辺に豪快な土塁と堀が残っていて、木や草も刈られていて見ごたえが あります。その北端は古墳を利用した櫓台のようになっていて、その上に加賀爪 家累代の墓があります。墓についての説明板はあるものの、館についてはとくに 碑や案内等は見受けられませんでした。 『日本城郭大系』によれば、高済寺の南方にも城域が広がっていて、堀跡など がみられたようですが、最近宅地開発が始まったようで、区画整理により失われ てしまったようです。かろうじて、南端の堀の外側にあったとされる古墳と思しき こんもりとした藪が見られました。 高坂館は至って中世的な選地にあり、少なくとも後北条氏時代以前には存在 していたものと推測されます。北条氏政が松山城を攻めた際の陣城として築か れたものとする見方もあるようですが、松山方面とは反対側に堀と土塁を累々と 設ける必要性が感じられないため、やはり長期的な使用を前提とした居住用の 城館とするのが妥当と思われます。 |
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高済寺西辺の堀と土塁。 | |
北西端の古墳を利用した櫓台状の張り出し。 | |
土塁を境内側から。 | |
高済寺。 | |
南端の堀外にあたる古墳後と思しき藪。 |