松山城(まつやま)
 別称  : 武州松山城
 分類  : 平山城
 築城者: 上田友直か
 遺構  : 曲輪、櫓台、土塁、堀、虎口
 交通  : 東武東上線東松山駅よりバス
       「吉見百穴」バス停下車


       <沿革>
           一般的に、応永六年(1399)に上田新左衛門尉友直によって築かれたといわれる。
          それ以前にも、新田義貞が元弘三年(1333)に鎌倉幕府を攻め滅ぼした際に築いた
          とする説や、さらには平安時代に源経基やその孫頼信によるものとする伝承もあるが、
          確証はない。上田氏は、武蔵七党の1つ西党庶流とされ、日奉(西)宗綱の孫重行に
          はじまるとされる。西党の根拠地東京都日野市に上田の地名があり、ここが本貫地
          とも思われるが、上田氏の読みは「うえだ」で、こちらは「かみだ」である。
           『鎌倉大草紙』によれば、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱に際し、松山城主
          上田上野介が足利持氏方として鎌倉を守備し、六本松の戦いで禅秀軍に敗れて討ち
          死にしたとされる。したがって、このときまでには松山城の原型が出来上がっていた
          ものと推測される。
           長享元年(1487)に始まる長享の乱においては、山内上杉氏に対する扇谷上杉氏
          の最前線の拠点として機能したものと思われるが、攻城戦が行われた記録はない。
           天文六年(1537)、扇谷上杉氏の居城河越城が北条氏綱によって攻め落とされる
          と、扇谷上杉朝定は松山城へと退いた。この時の松山城主は難波田弾正憲重とされ
          ている。憲重の姉妹は上田政広の室となっていたが、難波田氏が上田氏に代わった
          経緯については詳らかでない。北条軍は勢いに乗って松山城へ攻め寄せたが、上杉
          勢はこれを撃退した。このとき、寄せ手の山中主膳と憲重の間で和歌の応酬があった
          と伝えられる(松山城風流合戦)。
           天文十五年(1546)、いわゆる河越夜戦において、憲重は古井戸に落ちて死んだと
          される。この一戦で扇谷上杉氏は滅亡し、松山城も北条氏の手に帰した。翌十六年
          (1547)、憲重の娘婿の太田資正が松山城を急襲し、これを奪還した。憲重の男子は
          全員死亡していたため、資正は難波田氏と松山城主の後継を自認していたとされる。
          同年十月、資正の兄で太田宗家当主の資顕が死去すると、その居城岩付城を襲い、
          資正が家督を継承した。松山城には、政広の子能登守朝直が入った(資正とは義理
          の従兄弟にあたる)。しかし、同年中に再び北条氏が攻勢に出ると、朝直はあっさり
          北条方に寝返った。翌十七年(1548)には、資正も同氏に降った。
           永禄四年(1561)四月、関東入りを果たした上杉政虎(長尾景虎)は、小田原城
          囲んだものの、長陣に耐えられなくなり撤退を決意した。その途中で、松山城は武蔵
          維持の拠点城として攻められ、朝直(安独斎)らは抗戦したものの落城した。政虎は、
          上杉憲勝を守将に残し、帰国した。憲勝は扇谷上杉氏の一族とされるが、系譜上の
          位置は詳らかでない。再び上杉方に転じていた資正らの旧主筋として擁立されたもの
          と考えられる。
           同年十一月、北条氏は松山城奪還に向けて兵を起こし、生山(本庄市)で上杉氏の
          後詰と合戦に及んだ(生山の戦い)。北条勢はこの戦いに勝利したものの、松山城を
          攻め落とすことはできなかった。
           翌永禄五年(1562)十二月、再び松山城が北条氏に攻められ、輝虎(政虎から改名)
          は深雪をおして三国峠を越え、救援を試みた。しかし、援軍到着目前にして、翌六年
          (1563)二月に、憲勝は降伏・開城した。石戸(北本市)で報に触れた輝虎は、怒りの
          あまりその場で人質である憲勝の子を斬り殺したといわれる。また、この攻城戦には
          武田信玄が加勢しており、金掘り衆を率いて坑道を掘らせ、地下から城内に攻め入る
          戦法を用いたと伝わる。以後、北条氏直轄の拠点城として守将が派遣されたものと
          思われるが、具体的な城将の名については定かでない。
           永禄十二年(1569)、北条氏と上杉氏の間で越相同盟が締結された。相互に利権
          や領有権を認め合う形となったが、松山城の帰属については最後まで争点となった。
          最終的には、松山城は上田氏累代の居城であるという論理で北条氏が確保し、朝直
          が松山城主に復帰した。朝直の死後は、嫡男長則、その弟憲定と続いた。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、憲定は小田原城に赴き、松山城は上田
          氏家老山田直安以下2千人強が守備した。しかし、前田利家・上杉景勝らの大軍に
          囲まれ、あえなく陥落した。
           同年、徳川家康が旧北条領へ移封となると、松山城には桜井松平家広が1万石で
          入った。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの功績によって2万5千石に加増されたもの
          の、家広は翌六年(1601)に死去した。家広の異父弟忠頼が跡を継ぐが、同年中に
          さらに2万5千石を加増のうえ浜松へ転封となり、松山城は廃城となった。


       <手記>
           松山城は、河岸段丘が西に突き出してできた小丘を利用して築かれた城で、城山
          に阻まれるように市野川が北から西・南と三方を迂回して流れています。まるで城を
          築くためにあるような地形です。世に松山城という城は多々存在するため、武州松山
          城と呼ばれることが多いです。
           登城口は、私が見ただけで4カ所ありましたが、おすすめは北麓の岩室観音です。
          広い駐車場のある吉見百穴すぐ南側ですし、また江戸時代に建てられた立派な山門
          があるので間違いようがありません。門脇には、かつて洞窟ホテルか何かがあった
          らしい痕跡がみられ、今ではちょっとしたホラーな岩窟となっています。町役場のHP
          によれば、この岩窟は戦時中に地下軍需工場として掘られたもののようです。
           山門をくぐると岩盤を削った豪快な竪堀となっており、これを登ると兵糧曲輪を経て
          本丸に至ります。本丸にはかつて神社があったようですが、今ではなぜか撤去され
          ています。本丸の東端は櫓台跡で、城址碑が建てられています。
           本丸の南には石段があり、神社の参道だったようで、ささ郭の脇を通って西麓へと
          続いています。ただ、神社がなくなったせいか、こちら側はかなり荒れてきているよう
          に見受けられます。
           本丸の東は、それぞれ深い空堀を隔てて二の丸・春日曲輪・三の丸と続きます。
          本丸と二の丸、二の丸と春日曲輪の間は、攻め手側が細く、守備側がこれを覆って
          防げるように縄張りが工夫されており、松山城の見どころの1つと思われます。lこれ
          に対して、三の丸の構造はやや単調で、その外側の堀も他の曲輪間のものと比べ
          ると小さく、後になって拡張された部分であるように感じられます。他方で、三の丸に
          は他の曲輪に見られない土塁が残っています。
           このほか、城山の北側斜面に4、5箇所の削平地が認められます。南側斜面にも
          遺構が広がっているようなのですが、こちらは藪がひどく踏査は困難です。
           松山城は、杉山城菅谷館小倉城とともに「比企城館跡群」の名で国から史跡
          指定を受けています。4つのなかではもっとも有名と思われますが、残念ながら遺構
          の保存状況は4つのなかでもっとも宜しくないように感じられました。城内の大部分
          が私有地だからということなのでしょうが、町にとってはせっかくの貴重な観光資源
          でしょうから、もう少し手が入ればなぁと思うところです。

           
 市野川越しに松山城址を望む。
城址碑と櫓台。 
 
 本丸のようす。
ささ郭を望む。 
 空堀越しに本丸から二の丸を望む。
二の丸のようす。 
 二の丸と春日曲輪の間の空堀。
春日曲輪のようす。 
 春日曲輪と三の丸の間の空堀。
三の丸のようす。 
 三の丸の土塁。
三の丸外側の空堀。 
 兵糧曲輪。
岩室観音奥の堀。 


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