炬口城(たけのくち) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 安宅秀興か | |
遺構 : 土塁、堀、曲輪、虎口 | |
交通 : 神戸淡路鳴門自動車道洲本ICまたは 淡路島中央SICより車で10分 |
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<沿革> 永正年間(1504〜20)の初めごろに、安宅監物秀興によって築かれたと伝わる。炬口安宅家は 安宅八家衆の1つとされるが、詳しい系譜は不明である。先山千光寺の梵鐘に、「炬口城主安宅 秀興」が同十六年(1520)に追刻した銘が残っており、遅くともこのときまでには、秀興が炬口城 に住していたことがうかがえる。 秀興の跡は、駿河守吉安ついで次郎三郎秀益が継いだとされる。秀益は、大永八年(1528)に 三好氏に反旗を翻したが、蟇浦城主蟇浦常利および栗原城主島田遠江守によって鎮圧された。 天文十八年(1549)、三好長慶の弟冬康が安宅氏の養子となって家督を継いだ。冬康の養父 は洲本城主安宅治興といわれるが、諸説あり判然としない。その後。炬口城主として安宅正行の 名が伝えられるが、秀益以降の動静は不明である。 <手記> 炬口城は、洲本城と洲本川を挟んで向かい合う位置にある山城です。両者とも似たような山容 と地勢ですが、洲本城の方が30mほど高くなっています。 麓には古からの港町が広がっていて、道も狭く駐車は困難です。洲浜橋北詰の炬口海水浴場 と、炬口台場跡の間にある市営炬口駐車場がおすすめで、1時間までは無料でその後は1時間 100円で利用できます。 城山へは、上の地図にある通り南東麓から谷筋に登る道が設けられています。事代主神社の 角から路地を抜ければ、案内が出ているはずです。谷筋は、段々に堰き止めて雛壇状に均した 人工地形が続いていますが、根古屋などの遺構なのか、あるいは後世の耕作地か何かなのか は定かでありません。 鞍部に出たところで城山方面へ折れ、ピークまで登ると出丸になるようなのですが、行ってよい のかどうか分からなかったので遠慮しました。道は出丸と二の丸の小ピークを迂回して、本丸と 二の丸の間の堀切に出ます。途中、二の丸と出丸の間の凹部に明らかな人工の広い削平地が あるのですが、こちらについても屋敷跡などの遺構なのか、後世の造作なのか分かりません。 本丸と二の丸の間の堀切は、おそらく城内で最も規模の大きな堀遺構の1つと思われ、とても 見応えがあります。道はここで終わっているようなので、切岸を一兵卒のごとくよじ登って城内に 入ります。 炬口城の一番の特徴は、コの字型の大きな土塁をバッチンコして本丸が形成されている点に あるといえるでしょう。両コの字の結節点が東西の虎口となっており、山上の中世城郭としては かなり大規模な整形を加えているといえます。さらには、両コの字土塁自体も2段になっていて、 人によってはその下段をして北郭・南郭と呼んでいるようです。 北郭の土塁には横矢ないし櫓台状の張り出し部も見られ、また私が訪れた際は藪化していて 確認できませんでしたが、西の虎口先には畝状竪堀も残っているそうです。これらの特徴を総合 すると、炬口城は豊臣秀吉家臣の仙石秀久や脇坂安治が洲本城主だった時代まで、改修され つつ存続していたのではないかとも考えらえるように思います。それくらい、水軍あがりの土豪の 城としては完成度が高すぎるように感じられます。 |
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洲浜橋南詰付近から炬口城跡を望む。 | |
事代主神社と炬口城跡(右手奥)。 城山へはこの右手角から路地を抜けていきます。 |
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谷筋の土塁状地形。 | |
同じく雛壇状地形。 | |
出丸と二の丸の間の削平地。 | |
本丸と二の丸の間の堀切。 | |
同上。 | |
本丸の切岸。 | |
北郭と土塁。 | |
北郭南東隅の方形区画土塁。 | |
東の虎口跡。 | |
北郭土塁の櫓台ないし横矢状張り出し部。 | |
北郭北西隅付近の土塁。 | |
西の虎口跡。 | |
西の虎口跡の南郭側にもう1つ ある横堀状地形。脇虎口か。 |
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本丸中心部を俯瞰。 | |
南郭の土塁。 | |
南郭南西尾根の堀切。 | |
同堀切と南郭横堀および竪堀の三叉部。 | |
南郭の横堀。 | |
同上。 | |
二の丸の土塁。 | |
二の丸のようす。 |