洲本城(すもと)
 別称  : 三熊城
 分類  : 山城
 築城者: 安宅治興
 遺構  : 天守台、石垣、堀、井戸、曲輪
 交通  : 洲本高速バスセンターより徒歩30分


       <沿革>
           大永六年(1526)、淡路由良城主安宅治興によって築かれた。治興は三好長慶の弟冬康を
          養嗣子とし、安宅氏は淡路水軍の頭目として活躍した。しかし、冬康は永禄七年(1564)に兄
          長慶の嫌疑を受けて切腹を命じられ、跡を子の信康(神太郎)が継いだ。一般に、信康は天正
          六年(1578)に病死し、弟清康が安宅氏を継いだとされるが、近年では冬康の次兄三好実休
          (義賢・之虎)の子神五郎を神太郎の後継者とする説が提起されている。
           天正九年(1581)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉・池田元助が淡路に進軍すると、清康
          ないし神五郎は洲本城を開いて降伏した。しかし安宅氏は同年中に改易されて滅び、洲本城
          には秀吉の家臣仙石秀久が入った。同十年(1582)の本能寺の変に際し、淡路国人で所領
          を失っていた菅達長が洲本城を奪取したが、まもなく奪い返された。
           秀吉による四国平定後の天正十四年(1586)、秀久は戸次川の戦いでの失態により改易
          され、洲本城は3万石で脇坂安治に与えられた。安治によって、洲本城に天守や登り石垣が
          設けられた。
           関ヶ原の戦い後の慶長十四年(1609)、安治は伊予大洲藩5万3千余石へと加増・転封と
          なった。翌十五年(1610)には、姫路藩主池田輝政の三男忠雄が6万石で洲本城主に封じ
          られた。しかし、忠雄はこのとき若干6歳だったため、任地に赴くことはなかった。池田家では
          洲本城を廃城とし、岩屋城、次いで由良成山城を藩府とした。
           元和元年(1615)に岡山藩主池田忠継が早世すると、実弟の忠雄がその跡を継いだため、
          洲本藩は廃藩となった。淡路は徳島藩蜂須賀家に与えられ、筆頭家老稲田示植が由良城に
          入った。
           由良は要害の地であり、また紀淡海峡を押さえる水軍の要衝でもあったが、城下町の発展
          はあまり望めない狭隘な土地であった。そのため、示植および蜂須賀家は洲本への移転を
          幕府に願い出た。寛永七年(1630)に許可が下り、翌年から同十二年(1635)にかけて、
          いわゆる「由良引け」が行われた。示植は洲本城山麓の居館を再建したものの、山城部に
          ついては廃城のままとされた。以後、植田家が明治維新まで洲本にあって、淡路の仕置を
          預かることとなった。


       <手記>
           洲本市街のどこからでも見える、天守にしてはちょっと小さな三層の建物。昭和三年に
          天皇の即位を記念して建てられたもので、旧態無視の鉄筋コンクリート造とはいえ、現存
          の模擬天守としては日本最古の部類に属する貴重な歴史的建造物です(笑)。
           別称の三熊城は、高熊山・乙熊山・虎熊山の3峰にまたがっていることから名づけられた
          とされています。三熊山は洲本市街の南に屏風のように横に伸びていて、たしかに縄張り
          上も西の丸・本丸・東の丸(武者溜)と、3つの曲輪群に分かれています。
           現存建造物は一切ありませんが、見事な石垣が残っているうえに眺望スポットでもある
          ことから、一般の観光客も結構いました。麓からの遊歩道も整備されていますが、車なら
          裏手から大手門跡脇まで登ることができます。
           ほぼ総石垣の山城はどこを見ても大興奮ですが、冷静に縄張り全体をみると、山の広さ
          をだいぶ持て余しているように感じます。三熊山はたしかに北側斜面は急峻ですが、それ
          以外の三方は比較的緩やかで、恃むに足るというほどではありません。そのうえ山上の
          スペースがだだっ広いということで、10万石以上クラスでなければ分不相応な城地です。
          脇坂安治の転封をもって廃城となり、その後再興されることはなかったということですから、
          最終的な改修者は安治ということになります。はっきり言って、3万石程度の安治の身分
          にはとても不釣り合いと思われます。
           そのため、とくに東西2つの峰の造作は本丸周辺に比べるといたって簡素で、東の丸は
          武者溜と呼ばれていますが、いったい何人溜まれることやらというくらい広大です。西の丸
          はこれまた東の丸と同じくらい広いのに石垣は浅く,虎口にさして工夫もなくといった有様。
          どちらも城内に取りこまなけらばならないので仕方なくといった感じなのではないかと拝察
          しています。3万石の兵力でこの城を守り切れるかといえば、答えは自ずから否でしょう。
           洲本城の大きな特徴といえば、登り石垣の存在です。山麓と山上の連絡ルートを確保
          する2列の石垣は、朝鮮の役における倭城で威力を発揮しました。しかし、登り石垣が有用
          なのは、山城と麓の港を結ぶような場合で、山麓居館と山城部を結んだところで籠城時に
          麓の館と往来する必要があったとは考えられません。伊予松山城と同じく実戦の用には
          ほとんど立たなかったものと推測されます。おそらく、朝鮮の役での戦功を誇示する目的の
          方が主だったのではないかと考えています。
           個人的にむしろ面白いと思ったのは、登り石垣の周辺に中世城郭様の腰曲輪や竪堀が
          いくつか見受けられたことです。おそらくこれらは安宅氏時代からの遺構と思われ、初期の
          洲本城を語る貴重な遺構といえるでしょう。

           
 麓から模擬天守を見上げる。
大手門跡。 
 日月井戸。
日月池。 
本丸と東の丸の間の鞍部に当たります。 
 東二の門跡。
東の丸武者溜。 
いったい何人溜まれるやら。 
 東一の門跡。
東の丸の石垣。 
 八王子木戸跡。
南の丸隅櫓石垣。 
 本丸大石段。
本丸虎口跡。 
 武者走台。
天守台と模擬天守。 
 天守台からの眺望。
搦手口と天守台。 
 登り石垣。
腰曲輪跡。 
 竪堀跡。
籾蔵跡。 
 西の丸へ通じる西門跡。
西の丸跡。 
 西の丸の石垣。
西の丸から本丸を望む。 


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