滝野氏古城(たきのしこ) | |
別称 : 滝野氏城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 滝野氏 | |
遺構 : 土塁、堀、虎口 | |
交通 : 近鉄大阪線赤目口駅徒歩25分 | |
<沿革> 滝野氏は伊賀十二人衆に数えられる伊賀の頭目の1家で、名張郡黒田荘の荘官で あった大江氏の後裔ともいわれる。伊賀三大上忍のの1つである百地家も大江氏流と する説があり、どちらも事実とすれば、両家は同族ということになる。古城の呼称から、 滝野氏の当初の詰城として築かれ、後に峰の下方に柏原城を新造したと考えられる が、確証はない。 天正九年(1581)九月の第二次天正伊賀の乱や、翌十年(1582)のに本能寺の変に おける伊賀衆の蜂起に際して、柏原城の出城として使われたと推測されるが、詳細は 不明である。 <手記> 柏原城から峰伝いに遡ればたどり着けると思いますが、とくに車の場合は平池脇から 古城跡の東を回る道路を進むと、琴平山古墳の説明板前付近からフラットに城跡まで 行くことができます。道路も車1台止まれるくらいの幅があります。 南側を除く三方を土塁で囲まれた伊賀式城館ですが、古城というくらいで、柏原城と 比べるとはるかに小城です。北東隅の土塁がやけに高く、逆に西辺などは防御の役に 立たなさそうなくらいの低さで、アンバランスさも気になります。堀は虎口のある東辺に 僅かに残る程度です。 西麓には滝野氏のものと見られる墓碑群があり、形状的には腰曲輪のようにも見え ます。柏原城を巡る戦いで、ここにも伊賀衆が詰めていたとは思いますが、食い止める というよりは、ゲリラ戦の出撃拠点くらいの扱いではなかったかと推測されます。 |
|
北東隅の高土塁。 | |
同上。 | |
主郭虎口前の堀跡。 | |
郭内のようす。 | |
西辺の土塁。 | |
滝野氏のものとみられる墓碑群を見下ろす。 腰曲輪跡か。 |