玉造城(たまつくり)
 別称  : 轟城
 分類  : 平山城
 築城者: 行方景幹か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR常磐線石岡駅よりバス
       「玉造庁舎」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           大掾氏一族の玉造氏の居城である。玉造氏は、大掾氏の分家吉田氏の流れを汲み、行方景幹
          の四男四郎幹政が治承年間(1177〜80)に玉造に住したことにはじまる。『日本城郭大系』には、
          玉造城は景幹(宗幹)が嘉応二年(1170)頃に築いたとある。幹政には3人の兄がおり、それぞれ
          小高氏・島崎氏・麻生氏の祖となった。玉造氏も含めた4家は「行方四頭」と呼ばれ、行方郡に勢力
          を張った。
           応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱に際して、鎌倉公方側に属した玉造幹綱は、禅秀方の
          島崎長朝と戦い、討たれたとされる。ただし、島崎氏当主に長朝という人物の名はなく、島崎長朝
          が誰なのかも含め、詳細は不明である。天文五年(1526)には、玉造宗幹が島崎利幹と戦った。
          2度の戦いで玉造城が戦場となったか否かは詳らかでない。なお、現地の説明版では、玉造城の
          築城年を寛正年間(1460〜65)としている。
           天正十八年(1590)の小田原の役後、大掾氏一族の領地は佐竹義重・義宣父子に与えられた。
          翌十九年(1591)二月九日、玉造重幹ら行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる
          諸領主が太田城に招かれ、殺害された。玉造城は佐竹氏家臣大窪兵蔵久元らに攻められ、城主
          なき城はまもなく落城し、そのまま廃城となった。


       <手記>
           玉造城は、梶無川の下流域に突き出した半独立丘にあり、眼前には霞ヶ浦が望めます。城跡は、
          現在畑地や集落となっていますが、わりと遺構は良好に残っています。一番の見どころは、主郭の
          土塁(切岸)でしょう。北側の土塁下に説明板が設置されているのですが、そこから見上げるような
          高さがあります。
           玉造城は、大きく分けて3つの曲輪を東西に並べ、間を堀切で切断しています。主郭はその西端
          にあります。3つの曲輪とも、現在は畑地になっています。ただ、主郭の畑地がもっとも状態が悪く、
          ほったらかしの深藪となっています。一応主郭の入口に、玉造城跡と書かれた立て看板が倒れて
          います。ですが、曲輪内の様子をうかがうのは困難ですので、土塁と堀に往時を偲ぶよりほかあり
          ません。
           余談ですが、玉造城址のすぐ北麓を、かつて鹿島鉄道が走っていました。上の地図の城跡北西
          で道が鉤字に折れているのは、かつて玉造駅があったからです。鉄道が残っていれば、玉造城址
          は駅前にあることになり、それなりに便利でしたでしょうから残念です。今は、石岡駅から代替バス
          が出ています。

           
 玉造城址説明板。
主郭北側の土塁(切岸)。 
 同上。
主郭に倒れ掛かっている立札。 
 主郭と二の郭の間の堀切。
北端の堀と土塁。 
 おまけ:玉造駅跡。


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