太田城(おおた)
 別称  : 常陸太田城、舞鶴城
 分類  : 平山城
 築城者: 太田通延か
 遺構  : 切岸、土塁
 交通  : JR水郡線常陸太田駅徒歩15分


       <沿革>
           藤原秀郷の子孫にあたる藤原通延が、天仁二年(1109)に常陸国太田郷に入植し、
          太田大夫を名乗って館を築いたのがはじまりとされる。12世紀半ばごろ、源義光(新羅
          三郎)の曽孫にあたる佐竹隆義が通延の孫通盛を屈服させ、太田城を接収して居城と
          した。通盛は久慈郡小野崎へ移り、小野崎氏の祖となった。
           治承四年(1180)に源頼朝が挙兵すると、平氏との関係の深かった佐竹氏は日和見
          の態度をとった。同年十月の富士川の戦いで源氏方が平家軍を破ると、頼朝は佐竹氏
          討伐の兵を向けた。このとき隆義は京に在り、子の秀義が金砂城に立て籠もって抵抗
          した。金砂城は翌十一月に陥落し、秀義は奥州へ逃れた。佐竹氏の所領は没収された
          が、家名の存続は許され、秀義は文治五年(1189)の奥州合戦に頼朝方として参じて
          いる。このときの功により旧領へ復帰できたものとみられるが、この間の城主について
          は詳らかでない。
           応永十四年(1407)に佐竹義盛が男子なく没すると、関東管領山内上杉憲定の次男
          義憲(後の義人)が、義盛の婿養子として家督を継いだ。これに佐竹一族の多くが不満
          を抱き、とくに有力分家で山入城主の山入氏(山入佐竹氏)と宗家との争いは、この後
          100年近くにも及ぶこととなった(山入一揆ないし山入の乱)。
           義人は嫡男義俊に家督を譲ったが、やがて次男実定を偏愛するようになった。享徳
          元年(1452)、山入祐義はこれを好機として実定を支持し、義俊とその子義治を太田城
          から追い出した。実定は太田城に入って佐竹氏宗家当主として振舞ったが、寛正六年
          (1465)に死去した。応仁元年(1567)、姻戚の大山常金を頼っていた義俊・義治父子
          は実定の子義定を駆逐し、太田城を奪還した。
           延徳二年(1490)に義治が没し、嫡男義舜が若くして跡を継ぐと、山入義藤・氏義父子
          が再び太田城を襲って奪取した。義舜は父と同じく大山氏を頼ったが、今度は山入父子
          自身が太田城主となり、宗家簒奪の野心を覗かせた。一度は追い詰められたものの、
          文亀二年(1502)の金砂山城の戦いで山入氏を撃退すると、義舜は永正元年(1504)
          に太田城を攻め落とした。氏義とその子義盛は捕えられ、斬首された。これにより、山入
          の乱はようやく終結し、太田城を中心とする佐竹宗家の支配が確立された。
           天正十八年(1590)の小田原の役でいち早く豊臣秀吉のもとへ参じた佐竹氏は、戦後
          に常陸一国安堵のお墨付きを与えられた。佐竹義重・義宣父子は、常陸支配の基盤と
          して、太田城から水戸城への居城移転を図った。水戸城主江戸重通は、佐竹氏に臣従
          しつつも半ば独立した勢力を有し、佐竹氏の退去要請にも従わなかった。佐竹父子は、
          同年十二月に水戸城を武力で城を攻め落とし、重通は結城晴朝を頼って落ち延びた。
          義宣は水戸城へ移り、太田城には義重が隠居として残って「北城」と呼ばれた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、佐竹氏は旗幟を鮮明にしなかったため、同七年
          (1602)に出羽国秋田郡20万石への懲罰的な減転封となった。これにより城砦としての
          太田城は廃されたが、水戸徳川家領となった後も「太田御殿」と呼ばれ、一部の建物が
          利用された。宝永四年(1707)から享和三年(1718)までは、水戸藩附家老の中山氏が
          実際に居住したとされる。


       <手記>
           佐竹氏累代の居城として知られる太田城は、源氏川と谷津川に挟まれた細長い台地
          の中途に築かれています。台地の先端ではなく中途という選地がとても特徴的ですが、
          おそらくこれは平安末期に一般的な開発領主の崖端の館として築かれたものが、その
          まま近世城郭にまで発展した稀有な歴史に起因するものと思われます。
           現在の太田小学校の校庭一帯が本丸とされ、校門を入ってすぐのところに「舞鶴城址」
          の石碑が立っています。舞鶴城の別名は、佐竹隆義が太田城に入ったときに鶴が空を
          舞っていた、ないし舞い降りてきたことにちなむとされています。ただ、私はこの伝承には
          眉唾です。舞鶴城という雅称は、多くが安土桃山時代以降に付けられたもので、実際に
          太田城がかつてそう呼ばれていたとしても、それは悠々自適の隠居生活をここで送って
          いた佐竹義重の時代のことと考えるのだ妥当であろうと思われます。
           閑話休題。本丸は東西2つの曲輪で台地を横断していたとみられ、その南北にも曲輪
          を従えていたようです。北側の曲輪跡には、城と関連のありそうな正方形の更地があり
          ますが、これはJTの施設跡地ということで無関係だそうです。ただ、調査で敷地内から
          堀跡が見つかっているとのことです。
           小学校校舎から小谷戸を挟んだ北西の帰願寺は、駒作砦と呼ばれる出丸跡とされて
          います。舌状台地の先端にありますが、遺構の有無は不明です。
           さて、太田城は縄張りについてはいくらか明らかとなっていますが、遺構を見出すのは
          甚だ困難です。堀は埋められ土塁は削られ、痕跡を探すのもひと苦労です。最も城跡の
          雰囲気を残しているのは、本丸西側の土塁を兼ねた切岸でしょう。ただし、造作として
          はっきり認められるものではなく、外観は学校の普通の土手と大差ありません。本丸南
          の曲輪にあたる若宮八幡宮北西裏手にも、同じ台地際の土手とも切岸ともとれる斜面
          が一部残っています。また、中城町交差点の北西に、ほとんど段差と見紛う土塁の痕跡
          があるそうです。
           このときは同行者がいたのと日暮れが迫っていたので、残念ながら小学校と帰願寺に
          しか立ち寄りませんでした。ですが、かの佐竹氏の数百年に及ぶ居城跡ということで、
          機会があればじっくりと探索してみたい気持ちはあります。

           
 太田小学校校門脇の舞鶴城址碑。
本丸北の曲輪跡のJT跡地。 
 本丸西側の切岸。
帰願寺。 


BACK