小野城(おの) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小野氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR磐越東線小野新町駅徒歩25分 | |
<沿革> 小野左右衛門の居城であったとされるが、いかなる人物か詳細は不明である。三春城主 田村隆顕の弟梅雪斎顕盛は、左右衛門の養子となって小野城主を継いだとされる。ただし、 顕盛が小野姓を称した形跡はない。 天正十四年(1586)に隆顕の子清顕が男子失くして病没すると、田村家中は親伊達派と 親相馬派に分裂した。梅雪斎は大越顕光や郡司敏良らとともに相馬派に属したといわれ、 同十六年(1588)に伊達政宗が三春に入城すると、小野城に拠って岩城氏を頼った。 翌十七年(1589)、岩城常隆が小野城に入り、伊達氏と対峙した。常隆は内通が発覚した 大越顕光を小野城で処刑し、梅雪斎はまもなく病死したとも、同年の下枝城の戦いで郡司 敏良とともに討ち死にしたともいわれ、その最期は判然としない。また、梅雪斎は親伊達派 で、政宗入城後に同じ伊達派で梅雪斎の叔父にあたる田村月斎顕頼と対立して失脚した とする説もある。 同年中に政宗が蘆名氏を滅ぼすと、常隆は利あらずとして伊達氏と和睦した。その後の 小野城については詳らかでない。梅雪斎とその子右馬頭は、田村家改易後の文禄元年 (1592)に自刃したとする伝承もある。 <手記> 専光寺の裏山が小野城跡で、墓地を登っていくと斜面の上に説明板が見えます。しかし ながら、こちらからは城内へ通じる道は見当たりません。上の地図にある西麓からの道を 行くと、案内表示や城址碑があります。 こちらから城山に入ると、その先で右か左かの分岐となり、左へ進むとすぐに本丸に至り ます。本丸は、背後に大きな土塁と堀切が見られ、とても幸せな気持ちになれるでしょう。 一方、先の分岐を右へ進むと、修羅の道となります(笑)。どうも、草をきれいに刈ってから ほったらっかしにされていたようで、下草が伸び放題でベトベトの荒れ野となってしまって います。途中の堀切には木橋もかかっていますが、朽ちに朽ちて足を乗せるのも不安です。 上述の説明板を目指して先端方面を歩を進めるものの、途中で藪草の海となり残念ながら 断念しました。 まったくの余談ですが、城山付近からは南方に青いとんがり屋根のメルヘンチックなお城 が見えます。これは「リカちゃんキャッスル」で、リカちゃん人形の工場をテーマパーク化した ものです。門前まで行ってみたものの、独身中年男性にはとても入れない難攻不落の城砦 でした(苦笑)。 |
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登城口の城址碑と案内。 | |
本丸前方の土塁。 | |
本丸のようす。 奥に後辺の土塁が見えます。 |
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本丸背後の堀切。 | |
本丸脇の腰曲輪。 | |
本丸前方側の堀切。 | |
同上。 右下に朽ちた木橋が見えます。 |
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城山前方の曲輪と土塁。 | |
同じく土塁。 | |
城山先端方面を望む。 | |
南麓から城山を望む。 斜面上に説明板が見えますが、そこまで行く 手段が見つかりませんでした。 |
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専光寺墓地からの眺望。 画面奥にリカちゃんキャッスルの尖塔が見えます。 |
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おまけ:リカちゃんキャッスル。 |