三春城(みはる)
 別称  : 舞鶴城
 分類  : 山城
 築城者: 田村氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、
 交通  : JR磐越東線三春駅からバスに乗り、
      「保健センター」下車徒歩5分


       <沿革>
           戦国大名田村氏の居城として知られる。田村氏は坂上田村麻呂の後裔を称している
          が、確証はない。鎌倉時代には、田村荘を預かる藤姓の田村庄司家があり、守山城
          を居城としていた。南北朝時代に入ると、田村庄司宗季は南朝の有力武将となったが、
          一方で田村荘北東には「御春輩」と呼ばれた武士団が独自に行動していた。三春城も
          このころに彼らによって築かれたとも考えられる。
           一般には、田村義顕が永正年間の子年(永正元年(1504)ないし同十三年(1516))
          に守山城から移ったとされる。義顕は前出の御春輩の出身で、田村庄司家とは別家で
          あるが、同族なのかまったくの別系統なのかは定かでない。応永二年(1395)の田村
          庄司の乱で没落した田村庄司家に代わり、守山城に入って勢力を伸ばした田村直顕
          の孫とされる。ただし、義顕の父盛顕の没年が長享元年(1487)で、義顕が永禄四年
          (1561)卒とされ、義顕は父の死後74年生きたことになり、あり得ないことではないが、
          系譜には疑問が残る。
           義顕の孫清顕が天正十四年(1586)に没すると、田村家中は親伊達派と親相馬派
          に分裂した。同十六年(1588)、清顕の義甥にあたる相馬義胤が、相馬派に擁されて
          三春へ入城しようとしたが、伊達派の田村月斎顕頼に銃撃されるなどして阻止された。
          同年、今度は清顕の娘婿である伊達政宗が三春城に入り、1か月以上にわたり滞在
          して相馬派を一掃し、清顕の弟氏顕の子宗顕を家督に据えた。
           政宗が田村氏の後見となった格好だが、これにより天正十八年(1590)の奥州仕置
          で、田村家は改易となった。田村郡は伊達領となり、三春城は政宗に預けられたが、
          翌十九年(1591)の葛西大崎一揆の結果、田村郡を含む6郡が会津領主蒲生氏郷に
          与えられると、田丸直昌が三春城主となった。しかし、文禄四年(1595)までの間に、
          直昌は居城を守山へ移し、三春は廃城となった。
           蒲生家は慶長三年(1598)に宇都宮へ減転封となり、その跡に上杉景勝が入封した
          が、同五年(1600)の関ヶ原の戦いにおける功績により、蒲生秀行が旧領に復帰した。
          すると、同十四年(1609)までの間に、今度は守山城主蒲生郷成が三春城を再興して
          移った。その後、郷成をはじめ蒲生郷治や郷成の子郷喜・郷舎兄弟といった蒲生家中
          の権力争いの中枢にいた重臣が、入れ替わり立ち替わりで三春城主となっていること
          から、会津藩蒲生家において三春が重要な拠点であったことがうかがえる。
           寛永四年(1627)に蒲生家が伊予松山へ減移封となると、入れ替わりで加藤嘉明が
          会津藩主となった。はじめ、嘉明の次男明利が三春城主を務めたが、翌五年(1627)
          には加藤家の与力大名であった松下長綱が、二本松から3万石で三春に入封した。
          長綱のもとで、三春城は近世城郭としての体裁を整えられたとされる。
           長綱は寛永二十一年(1644)に乱心したとして改易され、常陸宍戸藩から秋田俊季
          が5万5千石で三春藩に移封した。その後、秋田家が11代を数え明治維新を迎えた。
          ちなみに、戊辰戦争において三春藩は奥羽列藩同盟に加わったものの、新政府軍が
          迫ると無血開城したため、戦火を免れている。


       <手記>
           梅・桃・桜の3つの春の花が同時に咲くことから、その地名が生まれたとされる三春。
          私が訪れた晩秋にはもちろんそのいずれもなく、滝桜も花さえなければ目の前に車を
          停めて悠々と枝ぶりを眺められます。
           三春城を訪れて感じたのは、地図上で見るよりも高く急峻な山城であるという点です。
          江戸時代の居屋敷は山麓の三春小学校付近にあったということですが、山頂の本丸
          にも御殿が営まれていたそうです。本丸は上下2段になっており、上段からは東方の、
          下段からは安達太良山を含む西方の山々が望めます。
           近世城郭でありながら、中世城館の雰囲気を色濃く残しているのも三春城の大きな
          特徴といえるでしょう。北西の支尾根ピークには二の丸が、南東には三の丸(東館)が
          配置され、腰曲輪群や竪堀なども残されています。山間の古都ということで、隣の船引
          などと異なり古い町並みのようすも留めていて、ゆっくり歩きながら楽しめる町だと感じ
          ました。

           
 城下町から三春城を見上げる。
本丸下段のようす。 
 本丸下段の三階櫓跡。
三階櫓跡からの眺望。 
右手奥に安達太良山が見えます。 
 本丸上段への虎口。
本丸上段下の腰曲輪。 
 本丸上段のようす。
本丸上段からの眺望。 
画面中央は移ヶ岳か。 
 搦手門跡。
矢倉跡。 
 二の丸上段のようす。
二の丸下段のようす。 
 三の門跡。
揚土門跡。 
 三の丸(東館)跡。
三の丸の腰曲輪。 
 その先の腰曲輪群。
二の門跡。 
 竪堀跡。
同上。 
 城坂。
おまけ:オフシーズンの三春滝桜。 


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