田村館(たむらやかた) | |
別称 : 田村山荘、田村城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 三浦義村 | |
遺構 : なし | |
交通 : 東海道本線平塚駅よりバス 「田村十字路」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 史料には「田村山荘」として登場する。初めて記録に現れるのは貞応二年(1223)のことである。 築城者は三浦義村とされ、安貞二年(1228)に将軍藤原頼経が田村山荘へ遊興に訪れたことが、 『吾妻鏡』に記されている。これに先立つ承久元年(1219)、2歳の頼経が将軍として下向した際、 田村に5日間宿泊したことが『承久記』にみられるが、このときに田村館があったかどうかは不明で ある。 正治元年(1199)の梶原景時失脚の際に、景時館の対岸の備えとして築かれたとする説もある が、確証はない。一般的には、建暦三年(1213)の和田合戦の後に建設されたものと考えられて いる。義村は和田合戦で一族の和田義盛を裏切り、北条氏のもとで勢力を拡大した。 義村の子泰村は、宝治元年(1247)の宝治合戦で北条氏に反旗を翻し、敗れて自害した。将軍 頼経に近づきすぎたことも要因であったともいわれる。三浦氏の家督は傍流の佐原盛時が継いだ。 田村館は、このころまでには廃されていたものと考えられている。 <手記> 田村館は相模川右岸にあったとされる平城で、田村山荘という別称から考えて、単純な土居構 の館であったと推測されます。よって、梶原景時に対する防塁だったとする説については、可能性 は低いように思われます。それ以上に、田村には相模川渡河の田村の渡しがあり、この交通の 要衝を押さえる意味ももった施設であったと解する方が適当といえます。 近年まで遺構が残っていたそうですが、昭和35〜37年(1960〜62)に市営住宅が建設された ときに失われたようです。住宅の一角に住民の希望で石碑が建てられたものの、同56〜58年 (1981〜83)に改築された際に、若干北側に移されたそうです。したがって、館跡は現在の碑の 位置より南側にあったことになります。また、相模川の堤防脇には田村の渡しの碑もあります。 |
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田村館跡石碑。 | |
田村の渡し場跡石碑。 |