中村城(なかむら)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 塩見氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 福知山駅から車で10分


       <沿革>
           『丹波志』および『丹波国福知山領伝記』に、横山城主塩見(横山)大膳頼氏の弟が分知
          されて拠った5か所の一つとして中村が挙げられている。ただし、一般に頼氏の弟は4人で、
          それぞれ奈賀山城・猪崎城和久城・牧城を領したとされている。
           一方、『日本城郭大系』には赤松満祐の遺児・若松丸が何鹿郡沢之庄に逃れ、その子・
          播磨守義近が一尾城主大槻佐渡守の女を娶って中村へ移住し、姓を塩見に改めたとする
          地元の伝承が載せられている。この場合、中村城主塩見氏は小笠原氏流の塩見一族とは
          別系統ということになるが、いずれが事実かは確証がない。
           天正七年(1579)に塩見一族が明智光秀が攻め滅ぼされると、中村城も廃城となったもの
          と推測されるが、詳細は不明である。


       <手記>
           中村城は猪崎城の北西に位置する、細長い丘陵の先端部を利用した城です。主郭とその
          前後に曲輪が一つずつ付属した、縦に3つの曲輪から成っています。南郭には薬王子社が
          祀られており、南東麓の峠道から参道が付いています。
           主郭の前後には堀切が穿たれ、南郭の南側にも横堀が巡っています。主郭は南北2段に
          分かれており前後に土塁が設けられ、西側には開口部もみられますが遺構かは不明です。
          北郭の南側にも土塁があり、『大系』では櫓台としていますが、位置的には疑問です。
           全体的に小城ながらよくまとまっており、天正時代まで塩見一族の有力な拠点であったと
          思われます。一番の論点は城主が誰であったのかという点ですが、もし塩見を称する人物
          であったとするなら、五兄弟で唯一塩見氏を名乗り続けた猪崎城主塩見利勝の縁者では
          ないかと愚考します。塩見姓は、由来は不明ながら頼氏の父・頼勝が名乗ったとされ、赤松
          満祐が討たれた嘉吉の乱とは半世紀以上の隔たりがあり、また一尾城主の大槻佐渡守は
          永禄年間の人物とされることなどから、赤松若松丸を祖とするというのは、個人的に眉唾に
          感じます。
           またあるいは、所在地不明の奈賀山城(中山城)に相当する可能性も、あるのではないか
          とも思い至りました。中山城は「荒河中山安尾」にあったとされ、荒河は中村の由良川対岸
          に位置しています。中村とは上図にもある通り「中」という地名にちなんだ村名なので、同じく
          「中」にある山で中山城と呼ばれたという説明も、一応成り立ちはするのではないでしょうか。

 中村城跡近望。
南郭南東隅の横堀。 
 同じく南西隅の横堀。
土橋および開口部越しに南郭を望む。 
 南郭の薬王子社。
主郭南側の堀切。 
 主郭西辺下の帯曲輪。
主郭南辺の土塁。 
 主郭内の段差。
主郭西辺の開口部。 
遺構かは不明です。 
 主郭北辺の土塁。
主郭北側の堀切と土塁。 
 北郭側から堀切越しに
 主郭切岸を見上げる。
 北郭と切岸。 
 北郭から堀切脇の土塁を望む。
北郭下のようす。 


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