和久城(わく)
 別称  : 茶臼山城、山田城
 分類  : 平山城
 築城者: 和久長利
 遺構  : なし
 交通  : 京都丹後鉄道宮福線
     福知山市民病院口駅徒歩5分


       <沿革>
           南北朝時代初期の建武四/延元二年(1337)に、北朝方の片山高親が「和久城」を
          攻めたとする軍忠状が残る(『片山文書』)。また暦応二/延元四年(1339)にも、北朝
          の久下重基が和久城を攻めたとされる(『久下文書』)。さらに公家の洞院公賢の日記
          『園太暦』には、文和二/正平八年(1353)二月に山名時氏が但馬を出陣し、丹波の
          須知ないし和久城まで出張って来たとする旨が記されている。ただし、こられの和久城
          が今日そう呼ばれる城と同一であるかは定かでない。
           16世紀初頭から天田郡で勢力を拡大した横山城主塩見頼勝は、天文年間(1532〜
          55)ごろに四男の長利を厚村の和久城に配して和久氏を名乗らせた。横山城は長子の
          頼氏が継いで横山氏を称し、次男・長員は奈賀山城を、三男・利勝は猪崎城を、そして
          五男・利明を築いてそれぞれ拠ったとされる。
           天正七年(1579)、織田家臣の明智光秀が横山城や猪崎城を攻め落とすと、長利は
          城を開いて降伏した。和久氏は所領のあった何鹿郡和知郷の山家城に隠棲したが、
          光秀は城砦の取り壊しを命じた。しかし、長利はこれに応じなかったため、光秀に攻め
          滅ぼされたとされる。和久氏の没落によって、和久城も廃城となったとみられる。


       <手記>
           和久城は、茶臼山の別称の通りこんもりとした円錐形の半独立丘に築かれています。
          かつて山上にはホテルがあったようですが、現在は取り壊され、跡地は観光バス会社
          の営業所か何かになっているようです。案内や説明なども見受けられず、遺構がある
          ようにも思えなかったので、そそくさと退散しました。

 北から和久城跡を望む。
頂部現況。 


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