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石川城(いしかわ) |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 一色氏ないし石川氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁 | |
交通 : 京都丹後鉄道与謝野駅徒歩40分 | |
<沿革> 丹後守護一色氏ないし、その家臣・石川氏によって築かれたとみられるが、確証はない。 丹後石川氏は、明徳三年(1392)に一色満範が丹後守護に補せられたときに、石川長貞が 付き従って入国したのがはじまりとみられる。その出自については詳らかでなく、石河荘に 入って石川氏を称したのか、たまたま石川氏が名字と同じ石河荘を本拠としたのかは定か でない。 応永十三年(1406)十月、満範と対立した若狭守護代・小笠原長春(明鎮)は、子の長頼 と共に捕えられ、石川城に幽閉された。そして、同十五年(1408)に明鎮父子の本貫である 三河国幡豆郡で一族が放棄すると、翌十六年(1409)三月に父子は石川城で切腹を命じ られた。これが石川城に関する史料上の初出とされる。 永正九年(1512)に一色義有が没すると、後継を巡って加悦城主石川直経の擁する一色 義清と、守護代・延永春信が立てた一色九郎の間で激しい争いとなった。義清・九郎とも、 義有との続柄は定かでない。『丹後国御檀家帳』には、義清を指すとみられる「石川御取立 の屋方」や「一宮殿様」の名が記され、その弟の一宮新五郎や、伊賀栗軒らが石川の城に 拠っていたとされる。義清も石川城に在城していたと推測されているが、確証はない。 『与謝郡誌』などによれば、戦国時代末期には金谷伊豆守が城主であったとされる。天正 十年(1582)に石川城は落城したとされるが、経緯などは詳らかでない。 <手記> 石川集落背後の山上にあり、西麓の西禅寺は館跡とみられています。境内南北の尾根の どちらからでも、獣除けフェンスのゲートを抜けて登城が可能です。北尾根は秋葉神社を、 南尾根は墓地を経由し、両者が合流するあたりからは直登です。自分は、前者から登って 後者から下りましたが、結果的にはこれで正解だったように思います。 主峰・支尾根含めて腰曲輪がひたすら続く、丹後に多い単調な縄張りで、山頂の主郭まで 堀も土塁も見られません。主郭の背後にはようやく土塁があり、その背後は急斜面となって います。もう一つ東側の峰にも城域が及んでいるようですが、この急崖を下りて登る手間と 時間を鑑みて断念しました。なにより、ここまで腰曲輪に次ぐ腰曲輪を登らされ続けた精神的 ダメージが大きかったです^^; 石川城を巡っては、やはり石川氏との関係が大きな論点でしょう。石川氏の居城は加悦城 とされ、史料上も石川氏が石川城に拠ったという明確な既述はみられません。石川氏自身に ついても、もし一色氏と共に入国して石川氏を称したのであれば、元の姓が伝わっていても よさそうですが、それも分かりません。 したがって、石川氏が石河荘を領したのは偶然であり、石川城については徹頭徹尾一色氏 の持ち城であったというのが個人的な見解です。城主として名の見える伊賀氏は、守護代を 務めたこともある石川氏と同格の重臣ですし、戦国末期の城主として金谷氏の名が挙がって いるのも、一色氏が石川城を直接管理し城将を任じていたことの傍証といえるのではないで しょうか。 |
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南西から石川城跡を望む。 | |
居館跡とみられる西禅寺。 | |
西禅寺北尾根の秋葉神社。 | |
秋葉神社境内からの眺望。 左手中央に亀山城跡、その奥に加悦城跡が見えます。 |
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北尾根の腰曲輪。 | |
主峰の腰曲輪。 | |
同上。 | |
同上。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
主郭背後土塁。 | |
同上。 | |
西禅寺南尾根の腰曲輪。 | |
同上。 | |
同上。 | |
同上。 | |
南尾根の登城口。 |