加悦城(かや)
 別称  : 安良山城、有吉城
 分類  : 山城
 築城者: 石川氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口跡
 交通  : 京都丹後鉄道与謝野駅からバスに乗り、
      「算所公民館前」下車徒歩10分


       <沿革>
           一色氏重臣・石川氏の居城とされる。丹後石川氏は、明徳三年(1392)に一色満範が丹後
          守護に補せられた際、石川長貞が付き従って入国したのがはじまりとみられる。その出自に
          ついては詳らかでなく、石河荘に入って石川氏を称したのか、たまたま石川氏が名字と同じ
          石河荘を本拠としたのかは不明である。丹後石川氏は、一色氏の下で守護代を務める家柄
          となった。
           永正三年(1506)、管領・細川政元は若狭守護・武田元信の要請を受けて、養子の一人で
          ある細川澄之を大将に一色義有討伐の軍勢を送った。細川勢は石川直経の籠もる加悦城を
          攻撃したが、城は容易に落ちず、澄之は重臣・香西元長らと共に赤沢朝経らを残し、翌四年
          (1507)に京へ引き上げた。このとき、澄之・元長は直経と密かに和睦し、家中には落城した
          と偽ったとされる(『多聞院日記』)。
           同年六月二十三日、元長は澄之を擁して政元を暗殺した(永正の錯乱)。朝経は急ぎ陣を
          払って撤兵しようとしたが、宮津谷で直経の追撃を受けて自害を余儀なくされた。このとき、
          朝経は義有とは和睦しており、追撃は直経の独断であったともいわれる。澄之帰国の経緯も
          含め、直経と澄之方との間には政元暗殺を巡る密約があったともいわれる。
           永正九年(1512)に義有が没すると、後継を巡って直経の擁する一色義清と、同じく守護代
          の延永春信が立てた一色九郎の間で激しい争いとなった。義清・九郎とも、義有との続柄は
          定かでない。一時は春信に加悦城を攻め落とされ、加佐郡へ退いたが、武田元信の支援が
          あったとみられ、同十三年(1516)には加悦城の直経と上宮津城の小倉播磨守、久美浜城
          の伊賀右京亮で丹後を分割統治することが確認されている。
           義清の消息は同年中に絶え、一色氏の動静は一時不詳となる。16世紀前半の編纂とみら
          れている『丹後国御檀家帳』によれば、加悦城には国奉行の石川氏があり、周辺の諸城に
          一族を配していた様子が読み取れる。
           天正十年(1582)、本能寺の変を経て丹後北半を領していた一色満信が南半の領主・長岡
          (細川)藤孝に滅ぼされると、石川一族も追放・没落の憂き目に遭ったとされる。直経の嫡流
          子孫である秀門は瀧城主であったとも伝わり、加悦城の詳しい動向は明らかでない。また、
          秀門の子が安土桃山時代の大盗賊・石川五右衛門とする説がある。
           丹後一国を手中に収めた藤孝は、家臣・有吉将監を加悦城主とした。将監は、後に熊本藩
          三家老家の祖となる有吉立行の父・有吉将監立言を指すとみられる。翌天正十一年(1583)
          に将監が没すると、立行が跡を継いだとみられるが、慶長四年(1599)に細川家が豊後国に
          6万石を加増されると、立行は木付城主を任された。加悦城は翌五年(1600)の関ヶ原の戦い
          で、細川家が豊後一国へ加増・転封となるまでに廃されたとみられるが、詳しい経緯は不明
          である。


       <手記>
           加悦市街の背後に横たわる、比高100mほどの緩やかな山が加悦城跡です。東麓の算所
          グラウンド下に駐車場があり、その南西の算所地蔵裏手に獣除けフェンスのゲートが数か所
          ほどあります。自分はそこから西の谷筋に分け入ってショートカットを図ったのですが、途中で
          しんどくなって一度引き返しました。さらに南尾根の愛宕神社へ上がるのが正解で、そこから
          水道施設や古墳を利用したとみられる物見台状の塚状地形を経て、東端の馬駆け場と呼ば
          れる広く長い曲輪まで登山道が通じています。
           馬駆け場の他にも四方の尾根筋に腰曲輪を延ばし、竪堀や横堀、虎口といった防御施設も
          見られました。主郭は東下に副郭を付き出させ、他の三方は高い切岸となっています。主郭
          南西下の帯曲輪が2〜3段になっているのも特徴といえるでしょう。
           このように、腰曲輪をひたすら連ねる構造の多い丹後にあって、加悦城は比較的技巧性に
          富んだ山城といえます。他方で、有吉城の別称の由来とみられる有吉氏による、織豊系城郭
          への改修の痕跡はみられません。石川氏の地位を鑑みれば、一色氏系の城郭の最終形態
          とも考えられ、丹後国における重要な遺構であると思われます。

 加悦城跡全景。
愛宕神社。まずここを目指します。 
 古墳を利用したとみられる
 物見台状の塚状地形。
馬駆け場。 
 北東尾根の腰曲輪と土塁。
竪堀跡。 
 主郭南西下の帯曲輪。
同じく2〜3段に連なる帯曲輪。 
 帯曲輪の土塁。
 主郭東下の副郭。 
 副郭の虎口ないし堀切跡か。
主郭の城址碑。 
 主郭のようす。
主郭北東下の横堀。 
 北尾根の腰曲輪。
同上。 
 堀切跡か。


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