谷中台砦(たになかだい)
 別称  : 高柳谷中台砦
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 土塁、堀、虎口跡か
 交通  : 東武野田線高柳駅徒歩10分


       <沿革>
           『中世城館調査報告書集成』に記載があるが、詳細は不明である。


       <手記>
           谷中台砦は、大津川河岸上の一角にあったとされています。現在県道8号線が
          貫通しているあたりにかつて小さな丘があり、土塁らしきものがあったといわれて
          います。そのような丘があったとは思えないほど今ではきれいに均されており、
          遺構も消滅したようです。
           ただ、今回『大和之古城』のダイさんと2人で訪れて気になったのが、県道の1つ
          南側にある切通しの旧道のさらに南側です。古地図と照らし合わせてみると、この
          旧道は当時からあったもので、丘はこの道の北側に隣接していました。つまり、砦
          が存在したとすれば、その役割は大津川を越えて藤ヶ谷台地へ登るこの道を押さ
          えることにあったはずです。この旧道こそが、谷中台砦を語るうえでのキーであると
          いえるので、上の地図に緑線でなぞっておきました。
           この切通し道の南側は、現在畑地となっているのですが、その河岸側の縁には、
          土塁状の土盛り地形が認められます。また、この土盛りと辿ると、畑へ登る切通し
          状の獣道がもう1本あり、堀底道のようになっています。どちらも後世の開発による
          ものともいえるでしょうが、畑がきれいに造成されている分、2つの旧地形が古めか
          しいままで残っているのが目につきます。
           これらの地形上の状況証拠を鑑みるに、旧道北側の小丘についてはすでに消滅
          しているのでうかがいようもありませんが、個人的には谷中台砦はこの旧道を挟み
          こむような形で存在した関所のような砦だったのではないかと推測しています。
           大津川を渡河してくる敵に警戒しなければならなかったとすれば、築城主として
          第一に考えられるのは、小弓公方足利義明と争っていた高城胤吉でしょう。北へ
          700mほど行ったところにある高柳城は、曲輪形成に寄与していない遺構を備えた
          不思議な城といえ、谷中台砦と併せて、対小弓公方の最前線を担った城館として
          捉える見方が有効なのではないかと考えています。
           ちなみに、旧道の北側には現在新堀霊園という墓地があり、そのなかには人の
          背丈ほどの塚が2、3個点在しています。土塁とみるにはどうもそれぞれがつながら
          ないのですが、『集成』には「宮田原古墳群と同位置」とあり、おそらくは古墳なの
          だろうと思われます。

           
 切通し道の旧道と南側の畑地。
畑地の河岸側縁の土塁状土盛り。 
 同じく堀底道状地形。
旧道南側の畑地全景。 
 旧道北側の墓地内にある塚。
 古墳か。


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