天童城(てんどう)
 別称  : 舞鶴城、天童古城
 分類  : 山城
 築城者: 北畠天童丸か
 遺構  : 曲輪、切岸、土塁、井戸跡
 交通  : JR奥羽本線天童駅徒歩15分


       <沿革>
           江戸時代中期に成立した『続大平記』によれば、北畠顕家の末裔・北畠天童丸が築いたと
          ある。天童の地名の由来とされる人物であるが、同時代史料にはみられず実在した裏付けは
          ない。天童丸は出羽における南朝の旗頭として割拠したが、文中年間(1372〜74)に北朝の
          斯波氏と和睦して津軽の鯵ヶ沢へ立ち退いたとされる。
           代わって里見頼直が天童に入封し、天童氏を称した。頼直は斯波兼頼の嫡男・最上直家の
          子で、里見義宗の養嗣子となっていたが、義宗自身も兼頼の実弟で、里見義景の養子として
          跡を継いでいた。里見氏は新田氏の庶流であるが、血脈は同じ源姓の足利一門・斯波氏の
          庶流ということになる。また天童丸が実在しなかったとすれば、天童城の築城主は天童頼直
          と推測される。頼直は北は鷹巣、南は最上領を飛び越えて上山にまで子を分封させ、宗家の
          羽州探題・最上家に比肩する勢力を築き上げた。
           永正十一年(1514)、伊達稙宗が山形盆地へ侵攻すると、天童氏らは最上義定と共に応戦
          したが、義定は稙宗の妹を娶って講和し、事実上伊達氏に従属した。これを受けて、盆地内の
          有力国人が連合して最上八楯が結成され、天童氏はその盟主となった。同十七年(1520)に
          義定が没すると、自立性を求める八楯は伊達氏の介入を厭って挙兵し、天童城下でも激しい
          攻防戦が繰り広げられたといわれるが、ついに稙宗に屈して降伏した。しかしながら国人らの
          頑強な抵抗を受けて、稙宗も他家のように自身の子を入嗣させることは諦め、当時わずか2歳
          だった、義定の甥・中野義清の次男・義守を最上家当主とすることで大永二年(1522)に妥結
          した。この間の天童氏当主は天童頼長とされるが、確証はない。
           天正二年(1574)に、義守と嫡男・義光との争いに端を発する天正最上の乱が勃発すると、
          八楯は国人層に対して強圧的であった義光を嫌い、伊達輝宗の推す義守の陣営に属した。
          当初は多くの国人に伊達氏をも加えた義守方が優勢であったが、輝宗が周辺状況の変遷に
          よって頻繁な国外出兵が難しくなると、義光が巧みに立ち回って伊達氏や八楯らとの有利な
          和議にこぎつけた。これにより伊達氏からの独立を果たした義光は、同五年(1577)に天童城
          を攻撃したが、頼長の弟・頼貞は他の八楯の援軍を受けて撃退に成功し、両者は頼貞の娘を
          義光の側室とすることで講和した。
           一方で義光は、その後も天童氏庶流の上山氏を滅ぼし、東根氏を篭絡し、天童家臣の蔵増
          光忠を寝返らせて頼貞の子・頼澄の舅にあたる小国城主の細川直元を攻め滅ぼさせるなど、
          天童氏の勢力を着実に削減していった。天正十二年(1584)、八楯の一人である延沢満延が
          子の妻に義光の娘を娶って降伏するに及んで、義光は5500の兵で天童城を攻め、城内から
          内応者が続出したこともあり、ついに落城した。頼澄は満延の降伏条件として助命され、母方
          の陸奥国分氏を頼って落ち延びた。
           天童氏滅亡後の天童城については定かでない。江戸時代後期の天保元年(1830)、高畠藩
          2万石の藩主・織田信美が陣屋を舞鶴山の麓に移し、天童藩を称している。舞鶴山中腹には、
          先祖である織田信長を祀った建勲神社が創建された。


       <手記>
           人間将棋で有名な天童の市街地にある独立峰・舞鶴山が天童城跡です。徒歩なら建勲神社
          を目指せばよく、車であれば人間将棋会場の脇の駐車場まで上がれます。舞鶴山はその名の
          通り鶴が翼を広げる如くたくさんの尾根が展開し、全山が城域となっています。そのため、城内
          は主郭部のほかに中央郭や東郭、南郭、西郭、北郭など多くのエリアに分かれています。
           人間将棋の会場となっている中央郭は、山内で最も造成を受けている箇所ですが、それでも
          北端の2段の曲輪がはっきりと残っており、石碑や展望台が設置されていました。主郭跡には
          愛宕神社が建ち、社殿脇には城内で唯一の切岸ではない盛った土塁が見受けられます。
           主郭の東側は、井戸跡のある鞍部を挟んで東郭が展開し、とくに前方尾根には城内説明板
          に「みごとである」を記される腰曲輪群があります。腰曲輪自体は舞鶴山全体にびっしりと設け
          られており、逆に明瞭な堀が1本も見られないのは大きな特徴です。
           西郭は、なにかの立派な記念碑が複数建つ曲輪を上段とした腰曲輪群で、南郭は独立性の
          高い支峰ですが、耕作放棄地となっているようで入ってよいか分からず、遠目に段々の曲輪群
          を眺めるにとどめました。北郭は喜太郎稲荷神社裏手に3段ほど連なる腰曲輪群で、看過され
          そうな場所にありますが、遺構ははっきり残っていておすすめです。また稲荷神社と建勲神社
          の間の護国神社脇にも、数段の曲輪形成が見られました。
           全体としての感想は、とにかく居城であるという点に尽きます。堀がなく、腰曲輪や帯曲輪を
          ひたすら連ねるだけという単純な縄張りは、村山地域の山城では決して珍しくはないようです
          が、独立山をすべて小規模な曲輪群で埋めるというのは、当時なかなか壮観だったでしょう。
          翻って、最上氏と肩を並べる影響力を持った天童氏の実力の程がうかがえます。

           
 建勲神社門前から舞鶴山を見上げる。
建勲神社。 
 駐車場下の帯曲輪群を見上げる。
矢場跡。 
 西郭。
西郭下の腰曲輪群。 
 南郭を望む。
中央郭の人間将棋会場。 
 会場を上から。
中央郭下段のようす。 
 中央郭上段切岸と石碑。
中央郭上段のようす。 
 中央郭上段の展望台からの眺望。
 画面中央奥に楯岡城跡が見えます。
中央郭から主郭を望む。 
 主郭部西側の腰曲輪。
同上。 
 同上。
主郭部下段のようす。 
 同上。
主郭の土塁。
 土塁前の説明板。
土塁端の櫓台。 
 愛宕神社。
主郭南辺の切岸。 
 主郭東下鞍部の井戸跡。
東郭西側の腰曲輪。 
 同上。
東郭のようす。
 東郭前方下の曲輪。
同上。 
 東郭前方尾根の腰曲輪。
主郭北辺の帯曲輪群を見上げる。 
 北郭の喜太郎稲荷神社。
北郭の腰曲輪。 
 同上。
同上。 
 護国神社。
護国神社脇の帯曲輪。 


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