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天童陣屋(てんどう) |
別称 : なし | |
分類 : 陣屋 | |
築城者: 織田信美 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR奥羽本線天童駅徒歩10分 | |
<沿革> 天保元年(1830)、高畠藩2万石の藩主・織田信美は陣屋を舞鶴山の麓に移し、天童藩を 称した。背景には、寛政十二年(1800)に行われた幕府との所領交換により、藩領の多くが 村山郡内となったことや、文政九年(1826)に高畠陣屋が焼失したことが挙げられる。 信美の子・信学は、慶応四年(1868)に新政府から上洛を命じられたものの、病身のため 嫡男・信敏を名代として派遣した。続いて奥羽鎮撫使の先導役を求められると、家老の吉田 大八(守隆)が随行した。同年閏四月四日、旧幕府方の庄内藩軍が現地指揮官の独断で 天童へ攻め入り、陣屋と城下町を焼き討ちにした。信学・信敏は仙台藩領へ逃れ、大八は 藩内に身を潜めた。 翌五月に奥羽列藩同盟が結成されると、天童藩も周辺諸藩の圧力を前にして参加せざる を得なくなり、大八は責任者として切腹を余儀なくされた。しかし、小藩とて目立った活動は できないまま、同年九月には新政府軍に降伏し、明治維新および廃藩置県を迎えた。 ちなみに、天童名産の将棋の駒は、極貧にあえぐ下級藩士の救済策として大八が内職を 奨励したことにはじまる。 <手記> 天童陣屋は人間将棋会場としても知られる天童城跡の舞鶴山の西麓に位置しています。 上の図には、折れなどは等閑視したおおよその堀のラインを示しました。一目瞭然のとおり、 敷地をきれいに二分するようにJRの線路が貫通し、一帯は市街地に飲み込まれて遺構は まったく残っていません。中心の御殿跡には田鶴町公園があり、鬼門除けの北東角欠けの 外側には、今も喜太郎稲荷神社が鎮座しています。稲荷神社の参道口には陣屋の絵図が 建てられており、そこから一つ東側の通りの角には大手門跡の標柱もありました。 2万石の小藩とはいえ織田信長の直系子孫の陣屋なのですから、もう少し整備して、あわ よくば観光資源としてアピールしてはいかがかなぁと、いささか寂しく思いました。 |
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喜太郎稲荷神社参道口の陣屋絵図。 | |
参道脇の道場・調武館と稽古場跡の説明板。 | |
喜太郎稲荷神社。 | |
田鶴町公園。 | |
大手門跡と標柱。 |