長山城(ながやま)
 別称  : 名古山城
 分類  : 山城
 築城者: 遠山景広か
 遺構  : 堀、曲輪、土塁、虎口跡
 交通  : JR飯田線平岡駅から車で15分


       <沿革>
           信州(江儀)遠山氏の遠山景広が居城とし 16世紀前半に和田城を築いて移ったとされる。
          江儀遠山荘の遠山氏は、美濃国遠山荘の加藤氏流遠山氏の一族といわれるが、その系譜は
          明らかでない。応永七年(1400)の大塔合戦に際して遠山氏の名がみえるが(『大塔合戦記』)、
          当時から長山城に拠っていたのかは不明である。また、和田城へ移って以降の長山城の扱い
          についても定かでない。
           元景広の孫・景重が没して家督争いが生じ、和四年(1618)に旗本・遠山家が改易となると、
          景広の弟・豊国の孫・景治が城内に住み、喜多遠山氏の祖となったとされる。


       <手記>
           長山城は和田宿南西の、遠山川の屈曲部に突き出た名前通りの細長い峰を利用した城です。
          国道の峠の西側から登ると、まず稲荷神社が現れます。境内奥に堀切があるのですが、境内が
          城域に含まれるかは微妙な感じです。
           城内には2つのピークがあり、堀切を越えるとすぐ前方側の頂部曲輪となります。遠山郷観光
          協会の公式サイトなどによるとこの曲輪が主郭とされていますが、ここは敵兵から最初に攻撃を
          受ける箇所の一つです。遠山氏の城館のなかで最も曲輪数が多いとみられる長山城において、
          本丸が最前線にあるというのは違和感があり、個人的には高さ的にもより高所の奥側のピーク
          が主郭ではないかと考えています。
           2ピークの間の鞍部が広く削平されているのも、長山城の特徴の一つです。鞍部曲輪の南西
          隅には虎口跡と思しき凹区画があり、遠山氏の平時の屋敷があったのではないかとも考えられ
          ます。
           奥側の尾根には堀切や土橋状地形があり、頂部はあまり広さがなく、物見や狼煙台が主たる
          用途であったと推察されます。ピークの前方側にも、少し離れて出曲輪が一つありますが、周囲
          は遠山川に落ちる断崖なので、こちらから攻められる心配はあまりなかったでしょう。
           ところで信州遠山氏は美濃遠山氏の一流とされており、景広以降は美濃遠山氏の通字である
          「景」を用いています。しかし、両者の支配域はそれほど離れておらず、また戦国時代後期には
          双方とも武田氏に従属していたにも関わらず、お互いに何かしらの繋がりや交流があったという
          話を聞きません。むしろ信州遠山氏は遠江国の国人たちと密接な関係にあり、景広の父の代に
          移り住んできたとする伝承もあるそうです。個人的にも、そう遠くない距離に同名の「遠山荘」が
          たまたま併存しており、出自不明の江儀遠山氏が景広のころから美濃遠山氏との類縁を称する
          ようになったのではないかと考えています。さらに敷衍すると、信州遠山氏は遠江国との関係が
          深く、景広が武田氏に降伏・臣従した際には、天野景泰が仲介して武田信玄に赦免を願い出て
          います。天野氏の通字も「景」なので、その一族が北上して江儀遠山荘に勢力を拡大したとする
          推測は、十分に成り立つのではないでしょうか。

           
 長山城跡全景。
北端の稲荷神社。 
城域に含まれるかは微妙です。 
 稲荷神社奥の堀切。
同上。 
 堀切から続く竪堀。
堀切上の前方側小ピークの頂部曲輪。 
 城址標柱。
2つのピーク間鞍部の曲輪。 
 鞍部曲輪から前方側の頂部曲輪を見上げる。
鞍部曲輪の虎口状地形。 
 奥側の尾根筋。
奥側尾根筋の堀切。 
 同じく土橋状地形。
奥側ピークの頂部曲輪。 
主郭か。 
 主郭南方尾根。
最南端の腰曲輪。 


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