和田城(わだ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 遠山景広
 遺構  : なし
 交通  : JR飯田線平岡駅から車で15分


       <沿革>
           信州(江儀)遠山氏3代・遠山景広が16世紀前半ごろに築き、それまでの長山城から居城を
          移したたとされる。本丸跡の龍渕寺は、大永元年(1521)に景広が僧・和尚を招聘し、遠山氏の
          菩提寺として創建したと伝わるため、このときまでには和田城も存在していたと思われる。武田
          晴信(信玄)が下伊那へ侵攻すると、景広は知久氏らと抵抗したものの、弘治元年(1555)まで
          に遠江の天野藤秀の赦免嘆願を介し、武田氏に降伏・臣従した。
           天正十年(1582)、景広は織田信長の武田攻めにおいて、高遠城に籠城して討ち死にした。
          跡を継いだ子の土佐守景直は、同年中の天正壬午の乱を経て徳川氏に従った。徳川家康との
          謁見の際、景直は供された食事の茶碗を手で隠すようにして食べ、終わると箸を碗上に離して
          渡るように置いた。家康が理由を訊くと、景直は所領が山間で米が穫れず、領主も領民も麦や
          粟を常食としているため、貴人の前ではこれを憚って隠すのだと答えた。家康は気の毒に思い
          1000石を加増し、また茶碗に箸をおいた構図から、二つ引両の2線の両端が突き出た図柄の
          家紋を考案して与えたとされる。
           家康が天正十八年(1590)に関東へ転封となったときの、景直の処遇は定かでない。家康と
          共に移ったとすれば、和田城はこのときに廃城となったとみられる。ただし、江戸時代初期には
          旗本として同地を領していたことから、いったん豊臣秀吉の直臣となったとも考えられる。この
          場合でも、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後に、城砦としての和田城は役割を失ったものと
          考えられる。
           元和元年(1615)に景直が没すると、跡を子の景重が継いだ。景重は病弱だったため、妹婿・
          二木勘右衛門の次男で甥にあたる小平次を養子としたが、その後に実子の長九郎(景盛)が
          誕生した。景重も死去すると、小平次と長九郎の間で跡目争いが発生し、幕府の裁定に双方が
          異を唱えたため、遠山家は改易に処された。ただ、改易が景直の死からわずか3年後の同四年
          (1618)で、長九郎は寛永十年(1633)に9歳で夭折したとされるなど、時系列には疑問が多い。
          いずれにせよ、和田城が旗本陣屋として存続していたとしても、江儀遠山家の改易を以て廃絶
          となったと考えられる。


       <手記>
           和田城跡には上述の龍渕寺と「遠山郷土館 和田城」が建っています。森山(盛平山)の峰先
          の裾に位置し、城砦というより館城という感じで、眼下には秋葉街道の宿場町が延びていること
          から、要害ながら城下の狭小な長山城からの移転は経営上の理由によるものでしょう。盛平山
          には、頂部に詰城があったとされています。
           郷土館は城郭風の造りをしているものの、これが建設されたがために遺構は失われたものと
          思われます。脇には城の上水でもあったとみられる平成の名水百選「観音霊水」があり、私も
          霊験あらたかとされる清水をペットボトルに汲みました。
           信州遠山氏については、一般的に隣国美濃の遠山氏一族の流れといわれています。「景」の
          通字から当人たちもそう意識していると推察されますが、他方で他国衆とする伝承もあるのだ
          そうです。たしかに、信州遠山氏には実際に美濃遠山氏と何かつながりがあったというような
          事実や行動はなく、逆に青崩れ峠を越えた遠江国との関係性やエピソードに彩られています。
          そもそも江儀遠山荘を領していたから遠山氏なのであって、美濃遠山氏の一族である謂れも
          必要性もありません。このあたり、信州遠山氏の出自については未だ疑問を差し挟む余地が
          多いといえるでしょう。

           
 和田城跡の「遠山郷土館 和田城」。
資料館脇の説明板。 
 龍渕寺。
龍渕寺境内の城址標柱。 


BACK