寺戸城(てらど)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 竹田氏か
 遺構  : なし
 交通  : 阪急京都線西向日駅徒歩20分


       <沿革>
           西岡衆の1人竹田氏の居城とされる。建武三年(1336)、竹田掃部左衛門入道成忍は、
          足利尊氏に与して寺戸郷地頭職を安堵された。したがって、竹田氏はそれ以前から寺戸
          に居住していたものと推測される。
           応仁の乱が勃発すると、寺戸は激戦地の1つとなったが、その時の寺戸城主は野田氏
          となっている。竹田氏と野田氏の関係も含め、城主の入れ替わりがあったのか、あるいは
          両氏併存していたのかは不明である。寺戸城主野田泰忠の著した『野田泰忠軍忠状』は、
          土豪レベルの戦いについて知るうえで欠かせない史料となっている。
           『軍忠状』によれば、応仁二年(1468)十月二十二日、泰忠ら西軍側の西岡衆軍勢が
          「寺戸山」に陣を張り、東軍の鶏冠井城を攻撃した。乱後の野田氏および寺戸城について
          は不明である。長享元年(1487)の西岡衆に関する文書に竹田仲重の名がみられるが、
          寺戸城との関係は詳らかでない。


       <手記>
           寺戸城は、向日丘陵の裾野の尾根先にあったとみられていますが、正確な所在地は
          分かっていません。最も有力とされているのが、字御所ノ内と呼ばれていた寺戸バス停
          東側の一画です。古地図には土塁らしきものが記されているということですが、これまで
          の発掘調査では遺構は検出されていないようです。
           このほかにも、字御所ノ内の北に字中垣内、バス停南西に字古城があり、やはり城館
          関連の字名と考えられます。地形から見ると、御所ノ内と中垣内はやや平坦な館地形、
          古城は舌状の峰の先端にあり、要害地形といえます。あるいは、居館部と要害部が分か
          れていたのかもしれません。
           また、『軍忠状』に登場する「寺戸山」は、わざわざ城でなく山と呼び分けていることから、
          寺戸城背後の山を指すと考えられています。おそらく、五塚原古墳のあたりではないかと
          思われます。

           
 寺戸バス停脇の字古城の標柱。
字古城のようす。 


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