鶏冠井城(かいで) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 鶏冠井氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 阪急京都線西向日駅徒歩10分 | |
<沿革> 西岡衆に属する国人の1人鶏冠井氏の居城とされる。鶏冠井氏は応仁の乱で西軍に属し、 応仁二年(1468)に東軍の寺戸城主野田泰忠らの攻撃を受けたことが、『野田泰忠軍忠状』 にみえる。 長享元年(1487)の『上久世荘公文』に、「惣国」の代表の1人として鶏冠井八郎次郎雅盛の 名がある。惣国とは、西岡衆ら周辺国人の緩やかな連帯であり、鶏冠井氏がそのリーダーの 1家として勢力をもっていたことがうかがえる。 16世紀前半の細川高国と細川晴元の抗争に際して、西岡衆は再び分裂した。鶏冠井氏は 晴元方に属したとみられ、晴元幕下に鶏冠井政益の名がみられる。『実隆公記』によれば、 大永七年(1527)に晴元軍の攻撃によって鶏冠井城は落城したとされる。 永禄八年(1565)、三好三人衆の石成(岩成)友通が革島氏の革島城を攻め落とし、臣下の 鶏冠井氏を城主に任じた。しかし、同十一年(1568)に織田信長が上洛すると、信長に従った 革島一宣が革島城を回復し、鶏冠井氏は没落した。その後の鶏冠井氏については定かでは ない。 <手記> 北真経寺東側一帯に「屋敷」という小字が残り、この一帯が鶏冠井城址とみられています。 城跡比定地は、東と南側に対してやや微高地にあり、館に毛が生えた程度の城館があった ことは想像に難くありません。とりたてて遺構はありませんが、鶏冠井公民館の隅に標柱が 立っています。 他方で、『日本城郭大系』では小字屋敷の南200mほどにある小字「堀ノ内」周辺を比定地 に挙げています(上の地図の南側の丸)。ただ、こちらの一帯は西側に対してかなり低まった ところで、あまり中世城館には適していないように思われます。あるいは、南西すぐのところに 残る旧長岡京の築地に関連した字名とも考えられます。 |
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鶏冠井公民館脇の標柱。 | |
字堀ノ内周辺のようす。 |