戸張城(とばり)
付戸張用替(とばりようがい)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 戸張氏か
 遺構  : 堀、土塁、虎口
 交通  : JR常磐線柏駅よりバス
       「弥生町」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           千葉氏庶流に戸張氏があることから、同氏の居城ではないかと考えられている。戸張氏は、
          千葉氏初代千葉師胤三男行常にはじまるとされる。ただ、その実在が一次史料から確認され
          るのは、『本土寺過去帳』の文明十年(1478)十一月三日の項にある、「前崎落城打死太田
          六郎殿同戸張彦次郎殿討死」という記述が初出とされる。同書の長享二年(1488)の項には、
          「立沢弾正入道トバリ」とある。立沢氏については、同じく千葉支族で千葉成胤の三男三谷
          胤広の子胤義にはじまるとされるものがある。戸張彦次郎の死後、何らかの理由で立沢氏が
          戸張城主を継承した可能性も考えられるが、詳細は不明である。
           戸張氏については、後北条氏時代には戸張九右衛門胤房が武蔵国吉川村(現吉川市)に
          所領を得ていたことが知られている。後北条氏滅亡後は徳川氏に仕えたとされるが、戸張城
          との関連は不明である。

       <手記>
           大津川に臨む細長い舌状丘を利用した戸張城址は、現在文京区立柏学園の敷地となって
          います。一般人の立ち入りはできないようですが、門越しに二の郭のものとされる立派な堀と
          土塁を望むことができます。また、門のすぐ向こうにある虎口は、明確に喰い違いとなっており、
          少なくとも最終的な改修者が(おそらく)高城氏であろうことが拝察されます。
           『日本城郭大系』では、戸張城址より北東の、手賀沼に直接面したあたりの方が、城を築く
          のには適しているのではないかとして、別な城館の存在した可能性を示唆しています。今日、
          上の地図に示した大津川河口付近の丘陵先端部に「用替」の小字が残っていることが知られ
          ています。「用替」とは、下総地方に散見される表記で「要害」を指すものとみられています。
           主郭跡と目される丘陵先端部には現在宿泊施設が建っており、自由に歩き回ることはでき
          ないようです。その手前の生活道路脇に、高い土盛りがあります。土塁跡とも思われますが、
          単なる削り残しにも見えなくはなく、なんともいえません。丘陵の北側斜面には、未舗装路と
          その脇に削平地状の平場があり、こちらも城館遺構に見えてなりませんが、判断はつきかね
          ます。丘陵の沼側麓の畑には、一直線上の段差が巡っており、かつてはここが水際であった
          ものと推測されます。したがって、手賀沼水運の要衝という『大系』の指摘には当てはまって
          おり、「用替」の小字とも相まって、城館跡であった可能性はかなり高いものと思われます。

           
 戸張城の堀と土塁。
 喰い違い虎口。 
 戸張字用替の丘陵先端部を望む。
土塁状土盛り。 
 北側斜面の未舗装路。
 旧道か。
未舗装路脇の削平地状平場。 


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