前ヶ崎城(まえがさき) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 高城氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR 常磐線・東武野田線柏駅よりバス 「免許センター入口」バス停下車 |
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<沿革> 『本土寺過去帳』の『本土寺過去帳』の文明十年(1478)十一月三日の項に、「前崎落城 打死太田六郎殿同戸張彦次郎殿討死」とあるのが初出とされる。翌十二月十日に前ヶ崎 の南東で境根原の戦いが起きており、千葉孝胤方の前ヶ崎城を太田道灌方が攻め落とし たものと推測される。前ヶ崎の南には、千葉氏重臣原氏の家臣高城氏が築いた根木内城 と栗ヶ沢城がある。両城の築城年代には寛正年間(1460〜66)と永正年間(1504〜21) 初頭の2説があり、前者であれば高城氏が、後者であれば千葉氏ないし原氏が築城主で あると推測される。 高城氏の勢力拡大後は、同氏の支城となったものと考えられている。『日本城郭大系』 では、付近の小字に「刑部郭」というものがあり、高城氏家臣に田島刑部少輔がいたこと から、田島氏が城主を務めていたのではないかとする説を挙げている。 <手記> 前ヶ崎城は、坂川と富士川、そしてその支脈の谷戸に挟まれたなんとも細長い台地の 先端に位置しています。その先っぺの1郭のみが、公園として保存されています。一応、 この曲輪が主郭とされており、小規模ながら土塁でしっかりと囲繞されています。地続き 部分は堀切で断絶し、それに面して櫓台状のこんもりした土塁とその脇に虎口跡が確認 できます。 堀底は、大きく広げられてプレハブ様の建物が建てられており、地形はかなり崩されて いるようです。その南にお屋敷が一軒あり、その前の切通し道はやはり堀切跡と思われ ます。 その先にはさらに台地上に数軒のお屋敷が建ち並び、現地説明板によればその南側 にも堀跡があったとされています。ですが、ここを第三の曲輪とするとかなり広大な城地 を有することになり、守備に相当な人数を要することになります。可能性がないとはいい ませんが、ちょっと眉に唾する必要はあるように思います。 そもそも、城外から城内への入口が主郭の堀切沿いに設けられ、尾根の先端ではなく 根本側の虎口脇に櫓台を設けるなど、縄張り上は主郭のみでほとんど完結したつくりと なっています。 |
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前ヶ崎城址を南西から望む。 一番左の林が主郭。左から二番目の林が第二郭。 右端の林のさらに右手に、第三郭の堀があったとされる。 |
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主郭内のようす。 | |
主郭の土塁。 | |
主郭の櫓台状土塁と虎口。 | |
主郭堀切跡。 | |
第二郭の堀切跡。 |