鳥羽山城(とばやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 徳川家康
 遺構  : 曲輪、石垣、堀、虎口
 交通  : 天竜浜名湖鉄道二俣本町駅徒歩20分


       <沿革>
           天正三年(1575)六月、長篠の戦いでの大勝に乗って攻勢に出た徳川家康は、
          要衝二俣城を落とすべく、周囲に5つの付城を築いた。鳥羽山城はそのうちの1つ
          であるが、新規の築城であったか否かは定かでない。
           二俣城は同年十二月に開城し、鳥羽山城は付城としての役目を終えた。以後、
          資料にはみられない。


       <手記>
           二俣城と向かい合う位置にある鳥羽山城ですが、両者の間にはかつて二俣川
          が流れていました。すなわち、鳥羽山城も二俣城と同じように三方を川に囲まれ
          た要害の地でしたが、山容の険しさでは後者の方が優っていたようです。
           戦前までは二俣攻めの陣城としてしかみなされていませんでしたが、戦後の
          度重なる発掘の結果、二俣城に匹敵するほど規模の大きな近世城郭があった
          ことが明らかになりました。近年では平成二十一年(2009)に発掘調査が行われ、
          幅6mを超える石敷きの大手道が検出されました。
           現在、城跡一帯は鳥羽山公園となっています。本丸下に駐車場も整備されて
          いますが、車で訪れる場合は二俣本町駅西方で線路を渡って尾根に上がる道が
          唯一の登城路となります。
           鳥羽山城は、基本的には方形に近い矩形の本丸と、その周囲の小曲輪群から
          成っています。本丸は北・東・南の三方に門が設けられ、南が大手、北が搦手門
          だったようです。本丸内には枯山水庭園の跡も見つかり、居住ないし迎賓の施設
          があったものと推定されています。鳥羽山城は、周囲の眺望には乏しい二俣城に
          対して、浜松方面の天竜川下流平野部を一望に付すことができ、本丸南辺には
          展望台も設けられています。
           件の大手道は、腰曲輪に挟まれながら直進して本丸石垣に突き当たり、鍵字
          に折れてから大手の枡形に入ります。あるいは、北斗七星の柄杓を描いて本丸
          に至るという表現もできるでしょう。東門の外側にも、暗渠や階段を伴った石垣と
          いったみどころがあります。
           また、大手道は尾根をそれて脇を下っていくのですが、尾根筋には2条の堀切
          が残っています。
           鳥羽山城は、大手口に工夫はみられるものの、直線・幅広の大手道や庭園の
          存在、そして本丸だけが突出した頭でっかちの構造となっていることなどから、
          戦時の二俣城に対する平時の城であったものと推測されています。また、石垣
          の技法などからみて、少なくとも現下の遺構を築いたのは堀尾氏であると考え
          られています。おそらく、余所者の新領主堀尾氏としては、浜松方面の平野部
          からは天竜川越しに仰ぎ見るような形となる鳥羽山に豪奢な石垣づくりの城館
          を設けることで、権威付けと支配の安定を図ろうとしたものと拝察されます。

           
 二俣城址から鳥羽山城址
本丸俯瞰。 
 本丸展望台から浜松方面を望む。
本丸の枯山水庭園跡。 
 大手門跡。
搦手門跡。 
 搦手下の笹曲輪跡。
東門跡。 
 東門跡外の暗渠跡。
本丸東辺外の階段の付いた石垣。 
 大手枡形下の石垣。
 ただし当時のものかは疑問。
大手道。 
 尾根筋の堀切1条目。
2条目。 


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