二俣城(ふたまた)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 今川氏か
 遺構  : 曲輪、石垣、天守台、土塁、堀、虎口
 交通  : 天竜浜名湖鉄道二俣本町駅徒歩15分


       <沿革>
           南北朝時代から戦国時代初頭にかけてのいずれかの時期に、遠江守護の今川氏
          ないし斯波氏によって、現在の浜松市天竜区役所の裏山に、二俣城の前身となる城
          (笹岡古城)が築かれたとされる。
           今川氏親が遠江侵攻を本格化させた明応三年(1494)以降に、現在の城山に新城
          築かれたものと考えらえれている。当初は二俣昌長が城主であったが、永正十一年
          (1514)に松井信薫に代えられた。松井氏は南北朝期以来の今川氏の重臣で、幕臣
          ののち小倉藩細川家の家老となった松井康之とは同族とされる。このとき、信薫の父
          貞宗がまだ松井家の家督を継いでいなかったため、二俣城主に任じられたのは松井
          一族の別人とする説もある。信薫は享禄元年(1528)に病没し、弟の宗信がその跡を
          継いだ。
           永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで宗信は戦死し、信薫の子宗親が家督を継いだ。
          同六年(1563)に曳馬城主飯尾連竜が今川氏から徳川氏に寝返ると、飯尾氏と姻戚
          にあった宗親は、駿府に呼び出されて謀殺された。
           宗親の跡は宗信の子宗恒が継いだが、永禄十一年(1568)に徳川家康に二俣城を
          攻められ、降伏した。二俣城主には中根正照が入れられ、宗恒は一時動向が不明と
          なったのち、武田氏に降った。
           元亀三年(1572)、西上作戦を開始した武田信玄は、2万7千人といわれる大軍で
          二俣城を囲んだ。対する籠城兵は、正照や副将青木貞治以下1200人ほどであった。
          天険の要害である二俣城は力攻めでは落ちず、ふた月ほど持ちこたえた。攻めあぐ
          ねた信玄は、二俣城では天竜川の崖に櫓を建て、釣瓶を下ろして水を得ていたこと
          に着目し、大量の筏を作って川上から流し、櫓に激突させて破壊する作戦をとった。
          これが功を奏し、水の手を失った城方は、まもなく開城した。
           翌元亀四年(1573)、陣中で発病した信玄が帰国途上で没すると、二俣城主には
          信濃国人依田信蕃が充てられた。同年、家康は反撃に出て二俣城を攻撃したが、
          このときは落城に至らなかった。しかし、天正三年(1575)の長篠の戦いで武田軍が
          壊滅的な敗北を喫すると、その年の末ついに、城兵全員の助命を条件に二俣城は
          開城した。家康は重臣大久保忠世を城主とし、城の改修を行った。
           天正七年(1579)、家康の長男信康は謀反の廉で二俣城に幽閉され、九月十五日
          に切腹を命じられた。
           天正十八年、家康が関東へ移封となると、浜松城12万石に封じられた堀尾吉晴の
          弟宗光が二俣城に入城した。宗光のもとで、現在の遺構に見る城が完成したと考え
          らえられている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により、吉晴の子忠氏は出雲24万石へと
          加増・転封となり、これによって二俣城は廃城となった。


       <手記>
           現在は二俣市街の脇をまっすぐ南下している二俣川は、当時は二俣城山と鳥羽山
          の間をぐるっと回って天竜川に合流していました。すなわち、二俣城はこの2川に三方
          を囲まれて突き出た天険の要害でした。
           城山は公園化されていて、本丸は天守台石垣をはじめ良好に残されていますが、
          その他の箇所については、遺構は部分的に残存しています。目に付きやすいのは、
          やはり天守台や二の丸門跡の石垣なのですが、これらは総じて堀尾氏時代の普請
          によるものと考えられています。本丸の北には北曲輪が、南には二の丸がありました
          が、今ではそれぞれ旭ヶ丘神社と稲荷神社の境内となっています。二の丸の南には
          蔵屋敷という曲輪があり、曲輪内は藪化していますが、二の丸との間の堀が良好に
          残っています。
           蔵屋敷からは、西側尾根へと回って天竜川の堤防土手に下りる道があり、途中に
          は竪堀跡が認められます。西尾根にはlくだんの水の手の曲輪があったと思われる
          のですが、こちらも公園の造作や藪化によって判然としない状態となっています。
           余談ですが、二俣では以前、天竜川下りの船が転覆する死亡事故がありました。
          ライフジャケットの装着を徹底していなかったことが過失とされましたが、そのコース
          は二俣城の真下を通過するものでした。ここはまさに、信玄がかつて急流さを利用
          して筏を放ったところであり、いかに現在では治水が進んで水量が減っているとは
          いえ、そのような曰くつきのルートを観光川下りのコースに選んだことに、そもそもの
          問題があったように感じています。

           
 本丸のようす。
天守台。 
 天守台の上から本丸を俯瞰する。
一部石積みが残る本丸土塁。 
 本丸一の門跡。
本丸二の門跡。一の門とで枡形を形成しています。 
 二の丸門跡。
二の丸と蔵屋敷の間の堀切。 
 西斜面の竪堀。
西尾根現況。 
 住宅と堤防のあるあたりがかつての二俣川流路。 
 本丸北の堀切跡。


BACK