戸賀崎城(とがさき) | |
別称 : 戸崎城、戸ヶ崎城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 戸賀崎義宗 | |
遺構 : なし | |
交通 : 名鉄西尾線桜町前駅徒歩7分 | |
<沿革> 足利一門戸賀崎氏の本貫地とされる。戸賀崎氏は足利氏の祖にあたる源義康の庶長子 矢田義清の子、広沢義実の三男義宗にはじまる。承久三年(1221)の承久の乱での功に より、宗家の足利義氏が三河守護に任じられたのを受け、三河戸賀崎に移住して姓とした。 義宗は建久元年(1190)に下野国赤見城を築いたとされるが、年代的に誕生していたのか どうか疑念が残る。なお、義宗の次兄には、後に室町幕府三管領の1つとなる細川氏の祖 細川義季がいる。 義宗以降の戸賀崎氏については詳らかでない。江戸時代後期の剣豪戸賀崎暉芳は、 天正九年(1581)に武蔵国清久村に移り住んだ義宗の9代子孫戸賀崎義氏の8代後裔と 称している。しかし、鎌倉初期から戦国末期までおよそ350年を9代で紡ぐというのは、あり 得ないことではないが現実的とはいえず疑わしい。 <手記> 現在の戸ヶ崎地域の南東端付近に「城山」「堀合」の小字があり、戸賀崎氏の城館跡は このあたりと推測されています。北浜川の幅広い谷戸に面したごく浅い舌状台地にあり、 義宗の子満氏にはじまる荒川氏の荒川城と向かい合っています。とはいえ、この谷戸は 当時かなりの低湿地だったと思われ、開発に向いているとは思えません。 戸賀崎氏については、三河国では義宗以降の伝承がまったくみられません。荒川氏に ついては、荒川詮頼が足利義詮に仕えて石見守護になっています。この点、戸賀崎氏は 先の暉芳をはじめ関東にその足跡がちらほら見受けられます。したがって、時期は不明 ながら、義宗が父祖の地である関東の赤見城へ、出戻りのような形で移ったとする推測 も、可能ではあると思われます。 |
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戸賀崎城跡比定地周辺現況。 |