赤見城(あかみ) | |
別称 : 町屋城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 足利俊綱か | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : JR両毛線・東武佐野線佐野駅よりバス 「町屋公民館入口」下車徒歩3分 |
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<沿革> 藤原秀郷(俵藤太)の子孫である藤姓足利氏の足利俊綱によって、治承二年 (1178)に築かれたと伝わる。俊綱は、同五年(1181)または寿永二年(1183) に志田義広が源頼朝に叛いて挙兵した際、これに与同したために追討を受け、 滅ぼされた。 建久元年(1190)、源姓足利氏の祖である源義康の曽孫戸賀崎義宗が城主 となったとされる。また、赤見城はこのときに義宗が築いたのが始まりともいわ れる。義宗の後は、その分流である荒川氏、次いで赤見氏と続いたとされる。 ただし、戸賀崎氏および荒川氏の本貫はいずれも三河国にあり、両氏が成立 するのは足利義氏が承久三年(1221)の承久の乱での軍功により、三河守護 に任じられてからのことである。したがって、義宗が築いたとするのは疑問が 残る。 現地城址碑の碑文によれば、荒川詮頼の子詮長の後に、赤見仲村・同義重 と続いている。このうち詮頼は、足利義詮の家臣として石見守護を務めた実在 の人物である。 享徳の乱さなかの文明三年(1471)、関東管領上杉顕定の家宰長尾景信が、 古河公方足利成氏方であった赤見城を攻め落とした。現地碑文によれば当時 の城将は成氏家臣南式部大輔父子とされる。 永正十二年(1515)に赤見六郎左衛門が赤見城主となり、佐野氏に仕えた とされる。永禄二年(1559)、赤見伊賀守が佐野泰綱に反旗を翻したが、城を 攻め落とされて常陸国へ逃れた。現地碑文では泰綱の子昌綱の代に赤見氏 は帰参したとされる。赤見城の廃城時期は不明だが、遅ければ慶長十九年 (1614)の佐野信吉改易まで存続したものと考えられる。 <手記> 赤見城は、佐野氏の居城唐沢山城の真西、出流川と駒場川の合流点手前 に位置しています。高低差があるようには感じられませんが、現在の集落の 分布から見て、かつては城一帯が浮島のように隔絶していたのではないかと 感じられます。 現在、本丸が保育園となっているものの、四周の堀と土塁が良好に残って います。とくに西側は、二重の高土塁とその間の深い堀の様子がとても見事 で、中世城郭ファンなら誰もが歓声を上げるか嘆息することでしょう。 保育園の入り口に城址碑や標柱がありますが、園内へ進入するわけには いかないので、西辺の土塁や堀を見学する際は北側から回り込まなければ なりません。構造としては難しいものではありませんが、とにかく遺構の残存 状況という点で特筆すべき城跡です。 さて、赤見城は戸賀崎義宗が築いたものとされていますが、前述のとおり 戸賀崎氏および後継の城主とされる荒川氏の苗字の地は三河国(それぞれ 今の西尾市戸ヶ崎町、同市八ツ面町)にあります。建久元年時点で義宗が 生まれていたかも定かでなく、義宗築城説は怪しいといえるでしょう。 室町時代初期および戦国時代に登場する赤見氏についても唐突な感じが あり、その出自には疑問がもたれます。他方で、三河の戸賀崎氏の動向は 義宗以降は途絶えているのに対し、関東では戦国末期に義宗の9代子孫と される戸賀崎義氏が、武蔵国清久村に移り住んだとする伝承があります。 あるいは、義宗ないしその子孫が出戻りのような形で赤見城に拠った可能 性も考えられなくはありません。 佐野氏領と足利長尾氏領の境目に位置する重要な城だったと思われます が、その歴史については謎な部分が多いといえるでしょう。 |
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赤見城址碑と標柱 | |
北辺の土塁と堀のようす。 奥(北辺西側)から西辺にかけて、 土塁が二重になっています。 |
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北辺西側の二重土塁の間の堀。 | |
北西隅のようす。 | |
西辺の二重土塁と間の堀。 | |
同じく南西隅。 | |
本丸東辺の土塁。 |