東福寺城(とうふくじ)
 別称  : 浜崎城
 分類  : 平山城
 築城者: 長谷場永純
 遺構  : 曲輪跡、土塁跡
 交通  : JR鹿児島本線鹿児島駅徒歩10分


       <沿革>
           天喜元年(1053)、藤原純友から4代目の長谷場永純によって築かれたと伝わる。その後、経緯は
          不明だが、南北朝時代までには矢上氏が城主となっていた。矢上氏は長谷場氏の一族とされる。
           暦応四/興国二年(1341)、南朝方の矢上高純の籠もる東福寺城を北朝方の島津貞久が攻めた。
          このとき、同じ南朝方の肝付兼重が大隅から駆け付けたものの、激戦の末、貞久が城を落とした。
          貞久は、東福寺城を島津氏の新たな居城に定めた。
           貞久の孫の元久は、嘉慶元/元中四年(1387)に清水城を築いて移り、東福寺城はその支城と
          なった。慶長七年(1602)に鹿児島城が築かれるまでには廃されたものと思われるが、詳細は不明
          である。天正七年(1579)に島津義久が多賀神社を城内に勧請していることから、早ければこのころ
          には、役目を終えて廃城となったものとも考えられる。

          
       <手記>
           東福寺城は、稲荷川と鹿児島湾に挟まれた細長い丘陵上に築かれた城です。城跡の大部分は、
          現在多賀山公園となっています。公園北端付近に城址碑があり、その裏手のピークが本丸とされて
          いますが、主郭はもっと北の峰に置かれていたともいわれており、はっきりしていません。また、規模
          についても、北の鳥越トンネル付近まで続く大きなものであったともいわれています。細い尾根で迷う
          ことはないでしょうし、頑張れば藪を分けて奥まで踏査することもできたかもしれませんが、旅行途中
          だったこともあって、断念しました。
           多賀山公園はよく整備された公園で、それゆえ城の遺構はほとんど見受けられません。多賀神社
          と東郷平八郎像の間にある最南端のピークは、削平地とそれを囲う土塁の痕跡があり、公園内唯一
          の明確な遺構であると思われます。
           『日本城郭大系』では、この神社裏手の峰を浜崎城と呼び、東福寺城内の一部であるとしています
          が、典拠は不明です。ただ、おそらく確実なのは、島津氏入城までの東福寺城はこの浜崎城の部分
          に限られていたであろうということです。あるいは、矢上氏くらいまでは浜崎城と呼ばれ、東福寺城と
          いう呼称は島津氏以降に付けられたものかもしれません。

           
 東福寺城址碑。
城址碑背後から主郭を望む。 
 多賀神社裏手のピークの削平地。
 右手奥に土塁の痕跡が見えます。
城址碑のある峰の中途にある石垣で固められた穴蔵。 
公園に必要とは思えないので、井戸跡か何かか。 


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