鹿児島城(かごしま) | |
別称 : 鶴丸城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 島津家久 | |
遺構 : 石垣、堀 | |
交通 : 鹿児島市電市役所前電停下車徒歩5分 | |
<沿革> 慶長六年(1601)、薩摩藩主島津家久によって築城が開始された。それまでの島津氏の居城は、 鹿児島城の北東1kmほどのところにある内城であった。築城に際して家久の父義弘は、鹿児島では 海からの攻撃に弱く、また財政上の出費を抑えるためにも、内城の前の居城清水城を再利用する 方がよいと主張した。家久はこれを肯んぜず、鹿児島築城を敢行した。完成時期は不明だが、天明 五年(1785)の『見聞秘記』には、家久が慶長九年(1604)に内城から鹿児島城へ移ったと記されて いる。 文久三年(1863)の薩英戦争では、鹿児島城にもイギリス軍艦の砲弾が撃ち込まれ、城内の建物 に被害が出た。明治六年(1873)には、失火により本丸を焼失した。 <手記> 鹿児島城は、西南戦争での西郷隆盛終焉の地として知られる城山の南麓に築かれています。城 とはいっても、わりと知られている通りその造りは居館ないし御殿そのもので、とても77万石の大名 の居城に見合う規模とはいえません。その理由について、巷説では家久が「人は城 人は石垣」を 実行したためだと美談的に語る向きもありますが、私は一般的にもいわれている通り、徳川幕府の 警戒を避けるためというのが一番であると思います。島津家は、関ヶ原の戦いにおいて西軍で本戦 に参加していながら改易を免れ、全国第2位の石高を維持した訳ですから、数ある外様大名のなか でも、とりわけ幕府の目を気にしてしかるべき立場にあったといえます。 もう1つ、私が個人的に鹿児島を訪れて感じたのは、土地の有限性です。鹿児島は甲突川や稲荷 川の河口に広がる町ですが、平地は少なく、海岸線からすぐのところに山が迫っています。端的に いえば、鹿児島の地図だけ広げると、77万石の藩府としては城地だけでなく、土地そのものが手狭 に思えます。それでも鹿児島が南北朝以来島津氏の拠点であり続けたのは、ここが薩摩を通る2大 街道である大口筋と出水筋の薩摩街道の交点であり、対岸の桜島から大隅へのアクセスも容易で あるという、交通上の利便性によるものと思われます。したがって、狭い土地を有効利用するために、 城よりも城下の整備発展を優先させたと考えることもできるように思います。事実、薩摩藩では城の 改修はそっちのけで、甲突川や稲荷川の川浚いや埋め立てによる土地の造成に力を入れています。 さて、鹿児島城は本丸と二の丸の南北たった2つの曲輪からなる城です。現在、二の丸はほとんど 旧型をとどめておらず、本丸周囲の石垣と堀が残っているのみです。美しく整然と積まれた本丸石垣 には、北東隅に鬼門除けの隅欠けをもつという特徴があります。城内には歴史資料センター黎明館 が建っており、旧状を推し測るのは困難です。黎明館の背後には、発掘調査に基づいて復元された 庭園の池泉(御池)があります。 鹿児島城は100名城なるものに選ばれていますが、上記の通り、規模といい技術といい意匠といい 実戦で役に立ったわけでもないこの城がなぜ「名城」なのか、私にはその基準が皆目分かりません。 明治維新の立役者である薩摩藩の殿様の城ということで、城郭史において意義のある城であるかも しれませんが、「名城」かと問われると、私には疑問です。 |
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鶴丸城址碑と大手口。 | |
本丸北東隅の鬼門除け。 | |
鬼門除けと大手口を望む。 | |
大手口の御楼門跡(手前の地表表示部分)。 奥には唐御門跡。 |
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北御門跡。 | |
本丸御角櫓跡。 | |
本丸御殿庭園の復元池泉(御池)。 |