清水城(しみず) | |
別称 : 清水山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 島津元久 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、切岸、堀 | |
交通 : JR鹿児島本線鹿児島駅よりバス 「鼓川」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 嘉慶元/元中四年(1387)、島津元久によって東福寺城に代わる新たな居城として築かれた。 応永十八年(1411)に元久が没すると、弟の久豊が跡を継いだが、これに不満をもつ元久の妹婿 で島津一族の有力者伊集院頼久が叛乱を起こし、清水城を攻め落とした。久豊は、まもなく城を 奪還したが、両者の争いは同二十四年(1417)に和議が結ばれるまで続いた。 天文十九年(1550)、島津貴久は稲荷川の下流に内城を築いて移った。清水城の山麓の居館 は廃されたが、山城部は詰の城として残された。居館址には寺院が建設された。 慶長六年(1601)に島津忠恒が鹿児島城築城を開始したとき、父義弘は鹿児島が海岸線から 近すぎるという防衛上の理由や、財政上の問題から、清水城の再利用を主張した。これに対し、 忠恒は父の反対を押し切って鹿児島築城を敢行し、清水城は廃城となった。 <手記> 清水城は、稲荷川が平野部に出る喉口部に延びた峰の先に位置しています。山麓の居館部に 対して山城部を「清水山城」と呼んで区別することもあるようですが、ここでは同一の城として扱い ます。 山麓の居館部は、現在清水中学校となっており、遺構はありません。諸資料を見ると、ここから 山城に登る道は途中でふさがっているため、訪城は不可能であるかのように書かれています。 実際、地元の方にうかがったところ、山麓からの登城路は崩落している箇所があるので危険だと いうことでしたが、代わりに山の裏手の住宅街から尾根伝いに行けるはずだという情報をいただき ました。城山の西の谷の幹線道路を登り、「たんたど」という奇妙な名前のバス停付近で右に折れ、 山肌の住宅街の裏手へと登ると、たしかに尾根道がありました。城跡へ行くための道というよりは、 山上の鉄塔に行くためのもののようです。 城内も思っていたより明るく、歩く分は藪化もしていません。本丸は下草が刈られており、わずか ですが眺望も利いています。山城部は、本丸が堀や切岸、土塁で独立しており、その下に削平地 群が連なるという構造をしているようです。時間があれば、もっとあちこち踏査したかったのですが、 旅の都合上主郭部周辺のみの見学にとどまりました。しかし、遺構の保存状態は良好で、島津氏 の一時期の居城跡としてもっと周知されるようになれば、今後の整備も期待できると思われます。 清水城は、鹿児島築城の際に島津義弘が適地として勧めたとされていますが、私にはどう考え ても、ここが77万石を擁する近世大大名の居城にふさわしいとは思えません。とりたてて要害性に 優れているともいえず、城下の発展性も望めない、きわめて中世的な地勢です。したがって、義弘 が本当に清水城移転を提案したのか、少々眉に唾する必要があるように思います。 |
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山麓居館址の清水中学校。 | |
稲荷川に架かる太鼓橋より居館部と山城部を望む。 | |
本丸背後の切岸と堀切。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の土塁。 | |
堀底道か。 | |
削平地群の1つ。 |