徳島城(とくしま) | |
別称 : 渭山城、渭津城、寺島城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 細川頼之か | |
遺構 : 石垣、堀、虎口、庭園 | |
交通 : JR徳島駅徒歩5分 | |
<沿革> 徳島城の築かれた城山には、もともと渭山城(いのやまじょう)があった。渭山城は、 元中二/至徳三年(1385)に阿波守護の細川頼之によって築かれたと伝わる。当時 の頼之は、康暦の政変によって失脚して阿波に逼塞し、四国での地盤強化に努めて いた。渭山城(または渭津城)の名は、城下を流れる助任川の眺望が中国の長安を 流れる渭水を思わせるとして付けられたものと伝わる。ただし、築城の経緯について 一次史料からは確認できず、異説もある。 永禄年間(1558〜70)、細川氏重臣から戦国大名化した三好長慶の弟で、阿波国 を実質統治していた三好実休(義賢、之虎)が、渭山城に家臣森飛騨守を、寺島城に 同じく福良佐渡守を置いた。寺島城は渭山城の麓に築かれた平城とされ、その場所 は現在の市立体育館から文化郷土会館の間付近と推測されている。 天正十年(1582)、本能寺の変後の混乱に乗じて土佐の長宗我部元親が阿波へ 侵攻して十河存保や三好氏勢力を駆逐すると、渭山城に家臣吉田康俊を配した。 天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めにおいて、木津落城の報に 触れた康俊は、渭山城防衛を諦めて撤退した。戦後、阿波一国18万6千石は蜂須賀 家政に与えられた。家政ははじめ一宮城に入ったが、ほどなく渭山に新城の築城を 開始し、翌十四年(1586)にひとまずの完成をみて移った。徳島城の名は、このとき 付けられたものとされる。また、徳島城落成を祝して城下に「好きに踊れ」とお触れを 出したのが、阿波踊りのはじまりとされる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、家政は西軍寄りであったが積極的な 参戦はせず、領国阿波を豊臣秀頼に返上し、自身は高野山に入って剃髪するという 行動をとった。そのため、徳島城には同じ西軍の毛利輝元の家臣らが入城したが、 直接戦場となることはなかった。戦後、家政の嫡子至鎮が東軍に属して戦果を挙げ たため、阿波一国を安堵された。家政はそのまま至鎮に家督を譲ったため、徳島藩 の初代は至鎮とされる。以後、徳島城は蜂須賀家14代の居城となり、明治維新を 迎えた。 <手記> 徳島城は、阿波の吉野川流域と阿南地方を結ぶ要衝に位置しています。建物は 残っていませんが、山城部と南麓の表御殿跡を中心に遺構がみられます。表御殿 には名勝に指定されている旧徳島城表御殿庭園があり、枯山水や池泉築山形式 の美しいお庭が見られます。 弁天池脇の東坂口から登ると、まもなく東二の丸に着きます。徳島城の大きな 特徴として、天守に相当する三階櫓が山頂の本丸ではなく、一段下の東二の丸に 建っていたという点が挙げられます。面白い特徴ではありますが、いかんせん理由 が分からず、未消化な感じはぬぐえません。 山頂の本丸には東・西・北の3ヶ所に虎口が開いています。ただ、北については 旧状を描いた縄張り図には記載されていないことが多いため、当時はなく、後世に 作られたものなのかもしれません。 本丸の西は西二の丸、西三の丸と階段状に続きますが、細尾根に曲輪の面積を 確保するためか、張り出した櫓台の脇に枡形虎口を設けるという手法が続きます。 本丸の西には弓櫓と枡形、西二の丸は御帳櫓と枡形といった具合です。西三の丸 の大部分は配水場の敷地となっていて、その手前にはやはり櫓台と両脇の虎口の セットが見られます。ただ、この箇所は江戸時代の徳島城をなぞった縄張り図とは 合致せず、当時の遺構なのかどうかやはり気になるところです。 麓の表御殿跡には、他に復元された鷲の門や数寄屋橋、また太鼓櫓跡といった みどころがあります。特徴的な遺構としては、JR線路の跨線橋手前から眺めること ができる舌石があります。これは塀を石垣から屏風折れに張り出させ、その部分を 支える柱を置く礎石替わりになっている樋のような石です。 |
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表御殿庭園の池泉越しに城山を望む。 | |
表御殿庭園の枯山水。 | |
東坂口の弁天池(蓮池)。 | |
東二の丸の石垣。 | |
東二の丸の天守跡。 | |
本丸石垣。 | |
本丸のようす。 | |
本丸北の虎口。当時の遺構かは留保が必要か。 | |
本丸西の弓櫓跡。 | |
弓櫓台の石垣。 | |
西二の丸の御帳櫓。 | |
西二の丸跡。 | |
西二の丸の枡形跡。 | |
西三の丸の櫓台状石垣。やはり留保が必要か。 | |
西三の丸の櫓台状石垣を中央に望む。 両脇に階段があり、虎口状態になっています。 |
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大手門跡と下乗橋。 | |
太鼓櫓跡。 | |
舌石。 | |
鷲の門(復元)。 | |
表御殿跡南東隅石垣。 | |
数寄屋橋(復元)。 |