| トレント(Trento) | |
| 別称 : トリエント | |
| 分類 : 都城 | |
| 築城者: ケルト人 | |
| 交通 : トレント中央駅徒歩1分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> トレントの地名は、ケルト語で浅瀬を意味する「Trent」にちなんでいる。ケルト人の集落を 征服したローマは、都市を建設して「トリデントゥム」と名付けたが、ローマ人には「3つの歯」 を意味する名称と認識されていたとされる。 476年に西ローマ帝国が滅亡すると、トレント地域(トレンティーノ)は東ゴート王国、ロンゴ バルド王国、フランク王国、イタリア王国と支配者を変えた後、962年に東フランク王オットー 1世が、イタリア王国を併合して神聖ローマ皇帝に即位した。1027年、皇帝コンラート2世は 世俗権力をトレント司教区に移譲し、トレント司教は宗教権力と世俗権力を合わせ持つ司教 領主となった。 14世紀初頭の司教領主ゲオルク・フォン・リヒテンシュタインは、南はヴェネツィア共和国、 北はチロル伯を兼ねるオーストリア公フリードリヒ4世と対立し、その過程で生じる税負担や 圧政に反発したトレント市民が1407年に大規模な反乱を起こした。ゲオルクはフリードリヒ 4世に救援を要請し、その軍勢によって助け出されたが、ブオンコンシーリョ城に拘留された 後にウィーンへ連行され、いくつかの城を取り上げられた。当時、フリードリヒ4世はローマ 教皇から破門されていたため、ゲオルクは1409年にその解除を条件として解放され、財産 と権利も返還された。 トレント(ドイツ語でトリエント)の名を世界的たらしめたのは、1545~63年に開催された トリエント公会議である。プロテスタントの勃興による宗教改革の機運増大を危惧した教皇 と皇帝を主体として招集された、カトリックの対抗宗教改革の源泉として知られるが、その 会場としてトリエントが選ばれたのは、両者に加えフランスのパワーバランスを考慮しての ものであった。この間に、都市の一部はルネサンス様式に改められたとされる。 スペイン継承戦争中の1703年、トレントはフランス軍に包囲されたが、陥落を免れている。 1796年と翌1797年にはナポレオン麾下のフランス軍に占領されたが、司教領については 維持された。しかし、1803年の「世俗化」によって司教領は帝国領に併合され、750年以上 におよぶ司教領主の支配は終わりを告げた。 <手記> 社会科の教科書にも登場するので知名度は高いトリエント(トレント)ですが、旅の計画を 立てるまでここがそうだとは知りませんでした。南チロルとポー平原の中間のアディジェ川 沿いにあり、両側に1000~2000m級の山々が連なる谷間の街です。中央駅の東側を囲う ように半円形の区画が延びていますが、これは1850年に直線化される前のアディジェ川の 流路で、トレントの旧市街はそのカーブの南外側沖積地に建設されていました。かつての 旧市街北辺は、その名もローマ通りなどとなっています。 トレンド大聖堂および広場のあたりがローマ時代のトリデントゥムの南辺で、その南方の フィエラ広場には中世以降の城壁の一部が残っているそうですが、調べが足りず見逃して しましました。駅南の跨線橋のたもとにはヴァンガ門および城塔が建ち、資料館として公開 されているようですが、私が訪れたときは改修工事か何かで休館中でした。またブオンコン シーリョ城の北西にも、15世紀後半の築というヴェルデ門および城塔が残っています。 時間があれば、ロープウェイでサルダーニャ山へ登るのもおすすめです。旧市街の全景を 一望できる絶景が楽しめるのはもちろん、1935年開通というかなり年代物の索道は、比高 約400m・距離約1kmを途中1本の支柱もなく結んでいて、乗り物好きにはたまらないスリル が味わえます。ちなみに、「Mio Trentino」というアプリを入れて「Trentino Guest Card」を DLすると、なんとそれだけで市内のバスや上述のロープウェイに無料で乗れるほか、各種 割引が受けられます。 |
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| 大聖堂広場。 | |
| プレトリオ宮とトレント大聖堂。 | |
| ヴァンガ門と城塔。 | |
| 城塔を見上げる。 | |
| ヴェルデ門および城塔。 | |
| かつて川沿いの旧市街北端だった通り。 | |
| ローマ時代のトリデントゥムの解説。 ブオンコンシーリョ城にありました。 |
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| サルダーニャ山から旧市街を見下ろす。 | |