エギスハイムの三城
(
Les Trois Châteaux d’Eguisheim )
 別称  : ダグスブルク城、ヴァーレンブルク城、
      ヴェックムント城ほか
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: エギスハイム伯フーゴー6世か
 交通  : コルマール駅からバスに乗り、
      「ユスラン=レ=シャトー」下車徒歩30分
 地図  :(Google マップ

       <沿革>
           ローマ教皇レオ9世ことブルーノ・フォン・エギスハイムの伝記に、少年時代の1016年時点で、
          シュロスベルク(城山)の城館についての記述がある。考古学的見地からは、10世紀末から
          11世紀初頭の築城と考えられており、レオ9世の父でノルトガウ伯でもあったフーゴー6世に
          よって築かれたと推測されるが、確証はない。
           1144年にエギスハイム伯家が断絶すると、ダグスブルク伯が城の北半のみを取得し、家名に
          ちなんだダグスブルク城として分割・改修した。ダグスブルク家はダボ家とも呼ばれ、その本貫
          はストラスブールの北西山中にあるが、フーゴー6世が同家のハイルヴィヒと結婚し、レオ9世の
          兄弟であるフーゴー7世の系統がダグスブルク伯を継承していた。ダグスブルク家は、ほどなく
          ダグスブルク=エギスハイム伯を称している。
           南半分はヴァーレンブルク城と名付けられ、1080年ごろにヘートヴィヒ・フォン・エギスハイム
          と結婚していたヴォーデモン伯ジェラール1世の子孫が、ヴォーデモン=エギスハイム家を興して
          相続した。1200年ごろ同家はさらに分割され、その分家を継承した、ジェラール1世の娘を母に
          もつプフィルト伯フリードリヒ2世が、城山の南端にヴェックムント城を築いた。ヴェックムントとは
          ヴォーデモンのドイツ語読みである。
           1225年にダグスブルク=エギスハイム家の最後の相続人であるゲルトルートが死去すると、
          伯父にあたるバーデン辺境伯ヘルマン5世が、彼女の遺領をストラスブール司教に寄進した。
          ゲルトルートの夫であったザールブリュッケンおよびライニンゲン伯ジモン3世は異を唱えたが、
          相続争いに敗れ、ダグスブルク城はストラスブール司教ベルトルト1世・フォン・テックの所有に
          帰した。ヴェックムント城主プフィルト伯フリードリヒ2世もダグスブルク城の獲得を狙ったが、
          1230年のブローデルスハイムの戦いでベルトルト1世に敗れ、失敗に終わった。
           ベルトルト1世の後継のハインリヒ3世・フォン・シュターレックはさらに司教領の拡大に邁進し、
          ローマ教皇と対立するホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世および子のコンラート4世
          の城砦を積極的に攻撃した。1251年までに残りの2城も占領したとされ、三城は100年以上ぶり
          に所有者が統一された。
           15世紀半ばには、司教の家臣としてペーター・フォン・エギスハイムがダグスブルク城に居住
          していたとされる。1466年、ミュルーズの製粉業者ヘルマン・クレーが財布から6ドゥニエの小銭
          がなくなったと訴え、ペーターに匿われた。神聖ローマ帝国とその麾下の領主たちは、これを
          言いがかりの材料として同盟を組み、裕福なミュルーズを狙って襲撃した(6ドゥニエ戦争)。
           これに対し、ミュルーズは同じアルザスのカイザースベルクやトゥルクハイムの援軍を得て、
          逆にエギスハイムの三城を攻め落とした。1468年のオクセンフェルトの戦いで領主側が壊滅
          すると、ヘルマンは捕えられて虐殺された。ペーターはミュルーズ市と講和したものの、多額の
          賠償を負うこととなった。
           三城は破壊されたまま再興されることなく、廃墟となって今日に至っている。


       <手記>
           エギスハイムの三城とは、一つの山頂に北からダグスブルク城・ヴァーレンブルク城・ヴェック
          ムント城と並んで建つ3つの城の総称です。麓から見ると3本の主塔が仲の良さそうに並立して
          いますが、実際には上述のとおり分割と相続争いの産物です。教皇レオ9世は今のヴァーレン
          ブルク城あたりで生まれ育ったとされていますが、分裂前の遺構は残っておらず、また当時の
          城域は3城を合わせたよりも広かったとみられています。ドイツ語では「ドライ・エグゼン(Drei
          Exen)」と呼ばれますが、エグゼンの意味は分かりません。
           車であれば、裏手の鞍部まで上がれて駐車場も完備されています。私は山脈の北麓から、
          プフリクスブール城オーランズブール城アグネック城→三城→エギスハイムと1日かけて
          歩きました。駐車場からでも麓のユスラン=レ=シャトーからでも、行き着く先はヴェックムント城
          とヴァーレンブルク城の間となります。
           目の前に主塔が3本も並んでいながら、いずれも登ることはできません。そもそも北のダグス
          ブルク城に至っては、主塔の壁の半分ほどがなくなっています。また、ヴェックムント城は城域
          自体に立ち入りできず、せっかくの珍しい史跡なのだからもう少し整備してくれても罰は当たら
          ないように思いました。とはいえ眺望もよく開けているので、課外授業らしき少年少女たちから
          小さな子供連れのファミリーまで、たくさんの人がハイキングに訪れていました。
           それにしても、隣接する3つの城郭がそれぞれ別個に存在していたというのは、日本の歴史
          から見るととても奇異に映りますね。城主同士の争いが城の攻防戦ではなく野戦で決している
          というのも興味深い点です。彼らが争っていたのは城の「所有権」および付属の所領であり、
          城そのものの戦略的価値が問われていたわけではない、ということなのでしょう。この所有に
          関する考え方が日本とは大きく異なっており、中世ヨーロッパの多くの城が、戦いよりも抵当の
          歴史に彩られているのもここに由来します。

  
 エギスハイムのブドウ畑越しに
 三城の主塔を望む。
オーランズブール城から望む。 
 ヴァーレンブルク城の城壁と
 ヴェックムント城の主塔を見上げる。
ヴァーレンブルク城とヴェックムント城の間の堀跡。 
 堀跡からヴァーレンブルク跡を見上げる。
13世紀建造のヴァーレンブルク城の円塔跡。 
 ヴァーレンブルク城の主塔および居住棟。
 奥にダグスブルク城の主塔も見えます。
ヴァーレンブルク城の建物跡(中央)と鍛冶場跡(左手)。 
 ヴァーレンブルク城の礼拝堂跡。
ヴァーレンブルク城主塔脇の門と井戸跡か。 
 ダグスブルク城の主塔。
ヴァーレンブルク城とダグスブルク城の間の堀跡。 
 ダグスブルク城の城壁。
ダグスブルク城の居住棟跡。 
 ダグスブルク城の主塔内部。
ダグスブルク城の環状城壁。 
 ヴァーレンブルク城とヴェックムント城の
 主塔を併せて望む。
ヴァーレンブルク城からヴェックムント城を望む。 
 ヴァーレンブルク城とヴェックムント城の間の
 堀切を埋めた石橋。
ヴェックムント城の主塔を見上げる。 
 ヴェックムント城の城壁。


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