津葉城(つば)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 津葉清文か
 遺構  : 曲輪跡
 交通  : 大聖寺城鐘が丸から徒歩5分


       <沿革>
           『太平記』によれば、延元二/建武四年(1337)に南朝の新田義貞に与した敷地伊豆守・
          山岸新左衛門らが、津葉五郎清文の大聖寺城を攻め落したとされる。この津葉氏の守城が
          津葉城であった可能性も考えられるが、推測の域を出ない。
           弘治元年(1555)、越前の朝倉宗滴が加賀の一向一揆を攻撃し、津葉城・南郷城・千束城
          の3城を1日で落としたとされる(『朝倉始末記』)。この津葉城について、大聖寺城の別称と
          する見方も根強いが確証はない。
           現在の遺構は、織田家臣・簗田広正(別喜右近)によって大聖寺城が再興されて以降に、
          その支砦として拡張されたものとみられる。


       <手記>
           大聖寺城跡の錦城山から、骨が谷の鞍部を挟んだ西側の峰が津葉城跡とされています。
          骨が谷とは物騒な名称ですが、関ヶ原の戦いに際して前田利長が大聖寺城を攻めたとき、
          大手が堅かったためこちらから回り込んで激戦となり、戦後も兵士の遺体が骨になるまで
          取り残されたことに由来するそうです。
           津葉城跡へは鐘が丸の櫓台土塁裏手から、そんな曰く付きの谷を越えて取り付きました。
          谷へ下りる斜面にも、2~3段の曲輪跡が見受けられます。谷の鞍部自体も推し広げて削平
          されており、番所か何かが置かれていたのではないかと推察されます。
           津葉城側の尾根筋にも数段の腰曲輪が連なり、切岸や虎口跡のような地形もありました
          が、江戸時代を通じて「お止山(入山禁止)」になっていたこともあり、草木が鬱蒼として判然
          としません。おそらく頂部下とみられる広めの曲輪に出たところで、藪に阻まれてそれ以上の
          踏査は諦めました。したがって、このルートでは冬季でも頂部まで行けるか微妙です。
           上の地図を見ても想像できる通り、ここに津葉城があったとして、錦城山より先に築かれて
          いたとは考えにくいように思います。はじめから錦城山と2つの峰に跨る城砦であったのか、
          あるいは『日本城郭大系』で仄めかされているように信長の時代以降に設けられたとみるの
          が妥当に感じます。
           もう1つ気になるのが、津葉城と関連があるのかないのか定かでない津葉五郎清文です。
          今では津葉という地名はみられないものの、信長の頃までは存在したと思われ、おそらくは
          近隣の土豪だったのでしょう。しかしながら1代で滅びてしまったのか、津葉氏自体はその後
          も続いたのか、なんとも歯に物が挟まったようなムズムズ感を覚えます。

           
 大聖寺城鐘が丸の櫓台土塁。
 津葉城跡へはこの裏を下りていきます。
櫓台裏手の斜面の腰曲輪群。 
 同上。
骨が谷の鞍部のようす。 
曲輪状に削平されています。 
 津葉城側斜面の腰曲輪跡。
切岸か。 
 虎口跡か。
頂部下の腰曲輪跡。 
これ以上は藪で進めませんでした。 
 谷越しに北尾根を望む。
大聖寺城下から津葉城跡を望む。 


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