大聖寺城(だいしょうじ)
 別称  : 錦城
 分類  : 平山城
 築城者: 狩野氏か
 遺構  : 曲輪、石積み、土塁、堀、虎口
 交通  : IRいしかわ鉄道大聖寺駅徒歩20分


       <沿革>
           建武二年(1335)に、北条氏の残党の1人である名越時兼が中先代の乱に呼応して北陸で
          決起し上洛を試みた際、上木・敷地・福田・山本氏といった狩野一党が大聖寺城に拠り、迎え
          撃ったとする記述が『太平記』に見え、これが大聖寺城の初見とされる。同書によればその後
          津葉五郎清文が大聖寺城を守っていたが、延元二/建武四年(1337)に南朝の新田義貞に
          与した敷地伊豆守・山岸新左衛門らに攻め落とされたとある。
           弘治元年(1555)、越前の朝倉宗滴が加賀の一向一揆を攻撃し、津葉城・南郷城・千束城
          の3城を1日で落としたとされる(『朝倉始末記』)。この津葉城とは、今日では大聖寺城の1つ
          南西の峰を指すが、大聖寺城の別称とする見方も根強い。
           永禄十年(1567)、朝倉家重臣の堀江景忠が一向一揆と結んで謀反を企てると、朝倉義景
          は堀江館を激しく攻め立てたが、容易に落ちず膠着状態となった。一揆方も景忠救援の軍を
          送ったが勝敗はつかず、朝倉氏の保護下にあった足利義秋(後の将軍義昭)の斡旋もあり、
          景忠父子は能登へ亡命し、一揆方はの大聖寺・黒谷・檜屋の3城を焼き払うことで講和した。
           天正三年(1575)に織田信長が朝倉氏を滅ぼすと、その勢力は南加賀の江沼・能美2郡に
          及び、修復された大聖寺城に織田家臣・梁田広正が配された。城内に残る戸次丸は、広正が
          同年に別喜姓を下賜されて「別喜(戸次)右近」を称したことにちなむとされる。
           広正には加賀平定の任が与えられたが、翌天正四年(1576)に再び一向一揆が蜂起して
          大聖寺城に迫ると、自身の兵力ではこれを押し返すことができず、信長に救援を請うた。信長
          は重臣・柴田勝家に鎮圧を命じ、広正を召還して勝家の甥にあたる佐久間盛政を大聖寺城に
          入れた。
           天正五年(1577)の手取川の戦いで柴田勢が上杉謙信に大敗すると、大聖寺城も上杉氏の
          手に落ち、元一向一揆の将・藤丸勝俊が城将となったとされる。しかし、翌六年(1578)に謙信
          が没すると織田方は巻き返しに転じ、同八年(1580)に盛政が尾山御坊を攻め落として加賀を
          併呑した。盛政はそのまま尾山御坊を金沢城と改名して城主となり、勝家の与力・拝郷家嘉が
          新たな大聖寺城主となった。
           天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで家嘉は討ち死にし、勝家も羽柴秀吉に滅ぼされると、
          江沼・能美2郡は丹羽長秀に与えられ、その与力として溝口秀勝が大聖寺城4万4千石の領主
          となった。長秀の没後も、秀勝は新たな越前国主の堀秀政に付され、堀家が慶長三年(1598)
          に越後へ転封となると、自身も新発田城へ移った。代わって、豊臣一門の小早川秀秋が筑前
          名島から越前北ノ庄へ減転封となると、付家老であった山口宗永が豊臣直臣に取り立てられ、
          大聖寺城6万3千石に封じられた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、越前の諸大名と共に西軍に属した。これを危惧した
          東軍の前田利長は、予防戦争として2万5千の兵を率いて金沢城から出陣した。前田勢はまず
          丹羽長重の籠もる小松城を攻めたが、容易に落ちないとみて抑えの兵だけを残し、2万を率い
          転進して八月一日に松山城へ着陣した。
           急報に触れた宗永・修弘父子は城の守りを固め、長重や越前諸将に援軍を要請した。翌二日
          に利長は降伏を勧告したが、父子はこれを拒絶した。援軍の間に合わないまま翌三日に城攻め
          が開始され、城兵は僅か500名ほどであったが激しく抵抗し、とくに修弘は手勢を率いて出撃し、
          前田軍に被害を与えたとされる。とはいえ、圧倒的な兵力差は如何ともしがたく、宗永は降伏を
          申し出たものの今度は前田方に拒絶され、城は1日で落ちて父子は自刃した。
           戦後、加賀一国は前田家に与えられ、大聖寺城には太田但馬守長知が城代に入れられた。
          しかし、長知は慶長七年(1602)に理由は不明ながら上意討ちとされ、翌八年(1603)には津田
          重久が新たな城代となっている。
           元和元年(1615)の一国一城令により大聖寺城は廃城となったが、寛永十六年(1639)に2代
          藩主・前田利常の三男・利治が7万石を分知されて大聖寺藩を立藩した。利治は城山の東麓に
          大聖寺陣屋を設け、城跡は「お止山」として一切の入山禁止とされた。


       <手記>
           長い戦いの歴史が物語る通り、大聖寺城のあった錦城山は加越国境の要衝中の要衝に位置
          しています。北麓には大聖寺川が流れ、城下では吉崎回りと牛ノ谷峠越えの北国街道が合流し
          ます。山容自体は緩やかで、必ずしも要害性に優れているわけではありませんが、南北朝時代
          から近世まで変わらぬ交通上の重要性から、たびたび係争の地となったのでしょう。
           城山は鶴翼の形状を成していて、その懐にあたる東麓から城内の主だった曲輪をぐるっと巡る
          散策コースが整備されています。江戸時代を通じて入山が禁止されていたことから、多様な樹木
          が茂る鬱蒼とした雑木林となっていて、眺望は開けていないものの豊かな自然も味わえました。
          一方で、訪れたのは10月の半ばだったのですが、叩くのを一瞬ためらうほど大きな蚊にたかられ
          たのが記憶に残っています。
           今日の遺構や縄張りは基本的に川口氏時代のままと思われ、部分的に石垣が残り、馬出しや
          虎口などに近世的な工夫がみられる一方、全体的には小規模な曲輪が階段状に展開している
          など中世城郭の雰囲気も色濃く残しており、織豊期の過渡期的な構造を今に伝えているように
          感じられます。とくに、弱点であるはずの緩やかに伸びる北東尾根に戸次丸や一向一揆時代の
          遺構とされる腰曲輪群が残っているというのは、大きな特徴といえるでしょう。あるいは一向一揆
          のころの大聖寺城は、戸次丸を主郭とするより小規模な城砦だったのかもしれません。
           最高所が本丸ではなく、局谷の堀切を隔てた背後の鐘が丸であるというのも特色のひとつで、
          さらに裏手の峠を越えると、上述の津葉城跡とされています。たしかに峠の向こうにも曲輪群が
          みられるのですが、錦城山を差し置いて単体で存在していたとは思えません。少なくとも今日に
          残る遺構は、織田氏〜川口氏の時代に整備されたものでしょう。

           
 東麓から大聖寺城跡を望む。
北側から望む。 
 谷筋の曲輪群。
馬出曲輪。 
 馬出曲輪の石積み。
本丸南虎口。 
 虎口脇の鏡石。
本丸跡と土塁。 
 土塁に残る石積み。
本丸櫓台。 
 櫓台の石積み跡。
本丸北東虎口。 
 虎口下の土橋状通路。
本丸下の馬洗い池。 
 二の丸虎口。
二の丸跡と土塁。 
 北東尾根の箱堀状の曲輪。
 奥が戸次丸切岸。
戸次丸跡。 
 一向一揆時代のものとされる削平地群。
二の丸下の横堀。 
 三の丸跡。
三の丸脇の竪堀。 
 西の丸跡。
本丸と西の丸の間の堀切。 
 本丸と鐘が丸の間の局谷。
鐘が丸跡。左手は櫓台土塁。 
 櫓台土塁の上。
南東尾根の番所屋敷跡。 
 同じく下馬屋敷跡。
南東尾根先端の東丸跡。 
 東丸跡からの眺望。
 天気が良ければ白山連峰が広がります。


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