壺笠山城(つぼかさやま)
 別称  : 壺笠城
 分類  : 山城
 築城者: 浅井・朝倉連合軍
 遺構  : 曲輪跡、石垣、土塁、堀、虎口
 交通  : 京阪石山坂本線穴太駅徒歩30分


       <沿革>
           『探訪ブックス 近畿の城』には、南北朝期に新田義貞の弟脇屋義助が築いたとあるが、典拠
          は不明である。
           元亀元年(1570)九月、浅井・朝倉連合軍3万が宇佐山城を襲ったが、攻城に手間取っている
          間に、摂津へ出陣中の信長が引き返してきたため、比叡山へ撤退した。信長は、比叡山延暦寺
          に味方になるか中立の立場をとるよう求めたが、延暦寺からの返事はなく、浅井・朝倉連合軍は
          「はちヶ峰 あほ山、つぼ笠山に陣取」った(『信長公記』)。壺笠山城はこのときに築かれたもの
          と考えられている。
           いわゆる「志賀の陣」と呼ばれる両軍の睨み合いはおよそ3か月に及んだが、大きな戦いには
          発展しないまま、その年の十二月に講和が成立した。この和議の条件として、信長は宇佐山城
          に火を放って陣払いしていることから、壺笠山城も同様の措置がとられたものと推測される。
           翌元亀二年(1571)九月十二日には比叡山焼き討ちが敢行され、志賀地方は信長の勢力下
          に収まった。この地の新たな領主となった明智光秀は、坂本城を築いて居城とした。壺笠山城が
          再興されたかは不明だが、天正十年(1582)の本能寺の変に際して、光秀は壺笠山城を拠点の
          1つと考えていたともいわれる。


       <手記>
           壺笠山は、比叡山の南東に位置し、四ツ谷川の谷戸を北に望む円錐形の山です。上の地図に
          ある、壺笠山直下を東西に走る点線の道は、古来京都一乗寺と近江穴太を結んでいた白鳥越え
          の峠道です。したがって、古くより壺笠山は交通の要地にあることになり、南北朝期に城砦とまで
          はいかなくとも、軍勢が駐屯したとしても不思議はありません。
           壺笠山城址へはもちろんこの白鳥越えを辿っても良いのですが、私は車だったので、四ツ谷川
          沿いの林道を利用しました。とはいっても一般車両は入れないので、麓の墓地に駐車して、そこ
          からは徒歩です。このような林道は遠回りなうえに面白味のない道であることが多いのですが、
          この林道は渓谷のせせらぎを聞きながら遡る清々しい道です。途中では、なんと野生のモグラに
          遭遇しました。地図にある通り、川を渡ってしばらくしたところで、山側へ登る道があります。案内
          などはないのですが、分かりやすい入り口なので迷わないと思います。むしろ問題はその先で、
          壺笠山下の峠に差し掛かったところで、壺笠山側の山肌を凝視しつつ進み、赤いテープを見つけ
          なければなりません。これさえ見つければ、そこから無理やり林へ分け入ったところに人が踏み
          固めた跡を認めることができます。
           この道を登りきると、壺笠山西側の尾根にでます。尾根に登る道は堀底状になっており、当時
          の軍道そのままである可能性があると思われます。尾根も土橋状に両岸が削られているように
          見受けられます。
           壺笠山城は、山上の主郭とそれをぐるっと囲う帯曲輪を主体としています。尾根筋には数段の
          腰曲輪が設けられており、ところどころ石垣の痕跡が残っています。主郭は円形の広い空間で、
          北と西に虎口が設けられています。とくに北側の虎口には折れが付いており、浅井・朝倉両氏の
          造作であることを如実に伝えています。
           壺笠山は、志賀の陣で浅井・朝倉連合軍が陣取ったとされる3つの山のうち、唯一場所が確実
          視されているところです。他の2つについては諸説紛々としていますが、大きく分けて壺笠山から
          西に並んでいたとするものと、北に並んでいたとするものの2通りあるようです。西に並んでいた
          とする説では、一般的には壺笠山と尾根続きの西の峰を青山(あほ山)とみています。『近江の
          山城』ではさらに論を発展させ、比叡山稜に近年発見された一本杉西城と、京側の一乗寺山城
          を「あほ山」「はちヶ峰」に比定しています。他方、北に並ぶとする説では、おそらく現在の八王子
          山を「はちヶ峰」とし、青山は壺笠山と八王子山の間にあったものとみているようです。
           いずれも裏付けとなるような証拠は何もなく推測の域を出ませんが、私個人の考えとしては、
          後者の北に並んでいたとする説を支持しています。壺笠山城は、整備された城とはいえ、同様の
          城があと2つあったとしてもとても万単位の兵を駐屯させることはできません。そもそも、お互いに
          万を超える大軍を擁して対峙しているわけですから、もし戦うとなれば、攻城戦ではなく野戦での
          決戦となることは容易に想像できます。したがって、比叡山稜を越えて京洛まで間延びした陣を
          長々と布き続けるということは、あまり合理的とは思えません。
           また、昭和の比叡山開発にともなう発掘調査では、山上からは戦国期の遺構がほとんど検出
          されなかったことが知られています。当時の史料でも指摘されている比叡山堕落論とも相まって、
          近年では、戦国時代の比叡山の主要機能はほとんど山麓の坂本へ移っていたのではないかと
          考えられています。これにしたがえば、比叡山が浅井・朝倉軍に提供した利便とは坂本周辺の
          施設の使用権であり、壺阪山等の陣場は山上に設けられた物見および伝えの砦であり、多くの
          将兵はそれよりも麓に展開していたと考える方が、3か月の長陣という状況からみても妥当なよう
          に思います。

           
 壺笠山城主郭のようす。
主郭下の帯曲輪のようす。 
 帯曲輪下の腰曲輪の石垣跡その1。
石垣跡その2。 
 竪土塁か。
切岸状の西側尾根筋。 
 尾根筋へ続く登城路。
 堀底道か。


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