月ノ輪館(つきのわ)
 別称  : 玉山館
 分類  : 山城
 築城者: 月輪氏か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 三陸沿岸道路登米ICから車で10分


       <沿革>
           葛西家臣月輪六郎・七郎(ないし五郎・六郎)兄弟が天正年間(1573〜92)に築いたと
          伝わる。月輪兄弟は迫の城主師門に仕えて6万石を領したが、迫合戦で討ち死にしたと
          される。その報を受けた妹のおりい姫は、敵軍の迫ると女中と共に館を出て山中で自害
          した。北西麓の折居権現は、姫の亡骸が葬られた地といわれる。
           その後の月ノ輪館および月輪氏については不明である。


       <手記>
           月ノ輪館は標高110mの玉山から稜線を北へ辿った先の「烏討嶺」にありました。脇の
          林道沿いに標柱や説明板があり、北東麓の林道入口にも標柱が建っています。それに
          よると城は二重の堀と土塁囲まれ、遺構も良好に残っているそうなのですが、現状では
          ド藪の林と化していてとても城内には入れません。道路沿いの笹薮の中に、かろうじて
          外側の堀と土塁が確認できました。
           東麓には北上川が流れ、そちら側はとみに急崖となっています。ただし、水越以南の
          流路は江戸時代以降に付け替えられたもので、当時は北から二股川が流れていたと
          みられます。
           城主の月輪氏については、実在はしたのでしょうが月輪という地名が付近に存在して
          いないため詳細は不明です。「迫の城主師門」は「三位中将藤原師門」といったともされ
          ていますが、そのような人物は確認できず、迫城や迫合戦についても史料にはみられ
          ないようです。もちろん6万石などという、主家葛西氏を凌ぎかねない所領を有していた
          とも思えません。
           玉山から稜線を南下すると、葛西氏の居城・寺池城があり、月輪兄弟によって支砦が
          烏討嶺に築かれたとするのは不自然ではないでしょう。とはいえ、城や月輪氏の来歴に
          ついては不明な点が多いと言わざるを得ません。

           
 月ノ輪館跡全景。
林道沿いの標柱と説明板。 
 外堀の土塁。
外側の堀。 
 北東麓の標柱。


BACK