寺池城(てらいけ)
 別称  : 寺池館、登米要害、臥牛城
 分類  : 平山城
 築城者: 葛西氏か
 遺構  : 門、削平地、堀跡か
 交通  : 仙台駅からバスに乗り、「とよま明治村」
      下車すぐ


       <沿革>
           戦国大名・葛西氏の居城とされるが、築城の経緯は不明である。葛西氏は秩父平氏流で
          下総国葛西荘を本貫地とし、源頼朝に出仕した葛西清重が奥州総奉行に任じられ、奥州に
          所領を得たことにはじまる。清重のときから既に寺池に館が営まれていたとする説もあるが、
          確証はない。
           清重の後は関東の本領と奥州の所領の2流に分かれたとみられるが、その系譜は仙台藩
          と盛岡藩それぞれに伝わる『葛西系図』で大きく異なる。奥州千葉氏の由緒では、千葉頼胤
          の子・胤信が清信と名乗って葛西時清の養子となり、建治二年(1276)に奥州へ下向したと
          伝わるが、葛西氏側に当該の記録はない。また、仙台系図では葛西宗清・貞清父子の代に
          南北朝時代を迎えたとされるが、盛岡系図では貞清の父を清信としており、実在していれば
          宗清と清信は同一人物とも考えられている。ただし、その場合でも清信は時清の実子とされ
          ている。
           このころに、奥州葛西氏は寺池系と日和山城を本拠とする石巻系に分裂していたとする説
          が有力視されている。ただし、寺池城と日和山城のどちらがもとからの葛西氏の居城だった
          かは詳らかでない。
           貞清の子・高清ははじめ南朝方として転戦したが、延元三/建武五年(1338)に北畠顕家
          が戦死したのを機に北朝へ転じたとみられる。南北朝の争乱が北朝優勢に傾くと、高清の
          系統が葛西氏の主流となった。高清の孫とされる満信の代には、葛西35万石とも称される
          最大版図を築いている。この間、葛西氏は居城を石巻から寺池へ移転したともいわれるが、
          もとから寺池城が高清系の本拠であったとする説もあり、やはり定説を見ない。
           満信の孫とされる政信の代には寺池城を居城としていたとされ、同時期に伊達成宗の次男
          宗清が石巻葛西氏の葛西満重の養嗣子に入り、政信とたびたび争ったとされる。さらに政信
          の跡を継いだ三男の晴重は、やはり伊達家から養子に入った伊達稙宗の子・晴清と抗争を
          繰り広げたといわれるが、葛西氏の事跡はなお混沌としており事実関係は明らかでない。
           晴胤の子・晴信は、天正十八年(1590)の小田原の役に参陣しなかったため、豊臣秀吉の
          奥州仕置によって改易となった。葛西氏および大崎氏の旧領30万石を与えられた豊臣家臣
          木村吉清は、葛西氏の居城であった寺池城に入った。しかし、吉清・清久父子の圧制に耐え
          かねた両家旧臣は、同年十月に葛西大崎一揆を引き起こした。一揆勢は寺池城を落として
          木村父子を佐沼城へ追い詰めたが、救援を命じられた伊達政宗軍に敗れた。一揆の残党は
          翌十九年(1591)まで抵抗を続けたが、七月に寺池城が開城して収束した。
           戦後、木村父子は改易とされ、一揆の扇動を疑われた政宗は木村氏旧領へ付け替える形
          で減転封を命じられた。これにより、寺池城はいったん廃城となったとみられる。
           慶長九年(1604)、伊達家一門の白石宗直が1万5千石で寺池城主に封じられた。宗直は
          同五年(1600)の関ヶ原の戦いで南部家に対する岩崎一揆の支援を命じられたが、失敗に
          終わったうえこの一件で徳川家康からのいわゆる「百万石のお墨付き」を反故にされたこと
          から、責任を取って水沢から移転させられたものとされる。当時の寺池周辺は葛西大崎一揆
          の争乱で荒廃したままの荒れ野が広がっていた。
           宗直はまず、寺池の北の水越に相模土手を築き、北上川を二股川に合流させ、寺池城の
          東麓を南流するように付け替えた。これはその後に続く北上川の治水や利水、付替事業の
          嚆矢となり、実高百万石へと繋がる足がかりとなった。また、宗直は寺池城を登米要害として
          整備し、後に伊達姓を許されて登米伊達家を興した。以後、登米伊達家は13代を数えた。


       <手記>
           葛西氏の居城とされる寺池城ですが、葛西氏の歴史には謎な点が多すぎるのと、寺池城
          自体の遺構の少なさもあり、評価がたいへん難しくなっています。城は南向きの細い舌状の
          丘にあったとされ、南端部分は登米寺池城址公園となり、南東麓に城址標柱や石碑が建て
          られています。かつては園内に登米懐古館がありましたが、街中へ移転したため、こちらの
          建物は廃墟となって近づくことが許されていません。
           その上には仙台家庭裁判所があり、現地標柱によれば二の丸跡とされています。ただし、
          宮城県立図書館所蔵の絵図によれば、ここから北側が本丸のようです。裁判所の東脇から
          奥へ進む道があり、緩斜面の麓に秋葉社の石祠があります。その上が頂部になりますが、
          県立図書館の絵図が正しければ、登米要害時代の本丸は南北に細長く3段に均されていた
          ことになります。
           頂部は畑地や民家となっていて、遺構らしきものは見当たりません。ただ、主郭ぶの背後
          には谷が切れ込んでおり、堀切を成していたものと推察されます。さらに北側の区画や西側
          の高台院霊屋なども城域に含まれるような気もしますが、現状では確認は困難です。一方、
          城下の武家屋敷街には葛西氏居館の裏門と伝わる四脚門があります。
           登米要害から登米の街を挟んだ南側には、圧倒的に大きな城域をもつ保呂羽館があり、
          こちらが葛西氏時代の寺池城だとする説も有力視されています。たしかに登米要害は戦国
          大名の居城としては手狭に感じられ、規模だけでいえば高い説得力を有しているといえるで
          しょう。ただ、大きさだけで論じることには留保が必要にも思います。
           保呂羽館は緩やかな丘陵の四方八方の尾根に多数の平場を並べただけの構造とされ、
          あまり籠城に向いていたとは思えません。直感的には、最盛期までの葛西氏は保呂羽館に
          居住していたものの、戦乱の深まりや家勢の衰えを受けて、コンパクトで守りやすい寺池城
          に詰城を移し、保呂羽館を根古屋などサブの役割に回したのではないかな、などと考えたり
          しています。

           
 東から寺池城跡を望む。
南東麓の石碑と標柱。 
 登米寺池城址公園の模擬門。
登米懐古館跡。 
 仙台家庭裁判所 登米支部。
 現地標柱では二の丸とされています。
裁判所裏の段差面と秋葉社。 
 頂部本丸跡のようす。
主郭部北端のようす。 
 主郭部背後の堀を兼ねたとみられる谷。
葛西氏居館の裏門と伝わる武家屋敷門。 
 寺池城下、武家屋敷街のようす。
おまけ:旧登米高等尋常小学校 


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