津久井城(つくい)
 別称  : 築井城、筑井城、根小屋城
 分類  : 山城
 築城者: 津久井義行か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、井戸
 交通  : JR横浜線/京王相模原線橋本駅よりバス
       「展望台」または「城山登山口」バス停下車


       <沿革>
           三浦氏の庶流津久井氏によって築かれたと伝わる。津久井氏は、三浦義明の
          弟三郎義行にはじまるとされる。ただし、津久井氏による築城説は、城山山頂に
          江戸時代に建てられた「築井古城碑」によるもので、史料による裏付けはない。
          一般に、三浦系津久井氏は現在の横須賀市津久井周辺に発祥すると考えられ
          ている。『新編相模国風土記稿』によれば、津久井の地名は筑井太郎二郎義胤
          がこの地を領したことによるとされる。義胤という人物が三浦系津久井氏の系譜
          上どこに位置するかは明らかでない。
           津久井氏の事績はまもなく途絶え、津久井城に関してはしばらく不明な時期が
          続く。文明八年(1476)に始まる長尾景春の乱で、太田道灌に敗れた景春方の
          本間近江守・海老名左衛門ら残党が、同十年(1478)に「奥三保」へ逃げ込み
          抵抗した。「奥三保」とは津久井周辺を指すため、本間氏らが立て籠もったのが
          津久井城だったのではないかともいわれる。
           大永五年(1525)、武田信虎が北条氏綱方の津久井城を攻めたものの、落城
          には至らなかったことが、甲斐妙法寺の『妙法寺記』に記されている。これが、
          津久井城の名が明確に現れる最初のものとされている。後北条氏の時代に、
          津久井城は内藤氏を城主として奥三保に57人からなる津久井衆が形成された。
          内藤氏は藤原秀郷流を自称しているが、その出自は謎である。大永五年合戦
          時の城主は内藤大和守とされ、永禄二年(1559)に作成された『小田原衆所領
          役帳』には、「内藤左近将監千二貫八百文」とある。内藤氏ら津久井衆は武田
          氏領との境にあるため、大きな権限を与えられていた一方で「敵知行半所務」と
          呼ばれていた。津久井衆からみれば、北条氏に従っている一方、郡内小山田氏
          の影響下にもあったことを反映している。
           こうした津久井衆の特殊事情が顕現したとされるのが、永禄十一年(1568)の
          三増峠の戦いである。甲相同盟の破綻により、武田信玄は北条領へ侵攻して
          小田原城を囲んだが、長陣を嫌い十月五日に撤退を決めた。信玄は、平塚から
          北上して郡内へ抜けるルートを選び、北条方の武蔵・上野勢は途中の三増峠で
          待ち構えた。三増峠は津久井城の南3qほどのところにあり、津久井衆が参戦
          すれば北条氏はより有利な状況に立つことができた。ところが、三増峠の隣の
          志田峠を越えてきた小幡重貞らの武田軍別動隊により、津久井城は動きを抑え
          られ本戦に参加することができなかったといわれる。結局、小田原からの本隊が
          間に合わず挟撃が完全でなかったことと、同じく志田峠から迂回した山県昌景隊
          の側面攻撃により、北条勢は多くの犠牲者を出して信玄の帰国を許した。
           『甲陽軍鑑』には、この戦いで津久井城主の内藤周防が武田方の加藤丹後に
          打ち取られたとあるが、実際には津久井城兵はほとんど傍観していたものと考え
          られている。北条氏照は、津久井衆の不作為を責める内容の書状を送っている。
          「敵知行半所務」の津久井衆は、甲相間の争いには中立な立場をとっていたもの
          と推測されている。戦いの翌年(1569)の足利義氏から小山秀綱への書状には
          「氏政滝山津久井普請申付」とあり、津久井城の改修が行われたことが伺える。
           天正十八年(1590)の小田原の役を前に津久井城は再び改修され、豊臣勢の
          来襲に備えた。役中、城主内藤大和守景豊(内藤綱秀とも)は小田原城に詰めて
          おり、城には内藤氏家臣150騎ほどが残っているだけであった。六月二十五日、
          徳川家康配下の本多忠勝・平岩親吉・鳥居元忠らの大軍に攻められ、津久井城
          は開城した。
           同年の北条氏の滅亡により、津久井城はそのまま廃城となった。江戸時代には
          天領となり、根小屋近くに代官支配の陣屋が建設された。


       <手記>
           津久井城は、津久井湖のほとりにある独立山全体に築かれた城です。津久井
          湖はダム湖なので、当時は相模川の深い谷に臨んでいたものと推測されます。
          ラクダの背中のような特徴的な山で、橋本駅周辺からも、それと望むことができ
          ます。4つのラクダのコブのような頂は、それぞれ西から本城曲輪、太鼓曲輪、
          飯綱曲輪、鷹射場と呼ばれ、城内の重要な曲輪となっています。
           城山南東麓の根小屋地区に、居館等平時の施設が設けられていたとみられ、
          発掘の結果小字御屋敷と呼ばれる場所から館跡の遺構が見つかっています。
          根小屋地区は城山南方のなだらかな山裾で、その南には尻久保沢の谷があり
          ます。また尻久保沢に向かって数本の沢が落ち込み、あたかも天然の竪堀の
          ようになっています。御屋敷の西には牢屋の沢と呼ばれる沢があります。
           御屋敷の背後から城坂と呼ばれる登城路が伸び、途中で男坂と女坂に分かれ
          ます。男坂は女坂に比べて急で、車坂(曲輪坂)ともいいます。車坂の名称から、
          この男坂が大手道と考えられます。車坂は、太鼓曲輪と飯綱曲輪の間の堀切の
          堀底につながっています。ここから東に向かうと、飯綱神社の祀られた飯綱曲輪
          に出ます。神社を中心に2、3段に削平され、さらにその東に、狼煙台と考えられて
          いるやや広い曲輪が続いています。飯綱曲輪の東下には、涸れることがなかった
          ことからその名がついたといわる、宝ヶ池と呼ばれる井戸があります。
           宝ヶ池から堀切と土橋を渡って東へと進むと、鷹射場と呼ばれる東端の曲輪に
          着きます。ここは、おそらく現在城跡でもっとも眺望が開けた場所です。
           車坂の堀切へ戻って西に向かうと、まず太鼓曲輪に着きます。曲輪の南端には
          土塁も残っています。太鼓曲輪下には、家老屋敷と呼ばれる腰曲輪が付属して
          います。太鼓曲輪の先には、曳橋が架かっていたと考えられている堀切があり、
          この堀は南側へ竪堀として続いています。その先には、土蔵や米蔵と呼ばれる
          腰曲輪を数段伴った、本城曲輪があります。本城曲輪の南半分には土塁が残り、
          土塁南端には先述の筑井古城碑があります。
           一般に、津久井城の大きな見どころは堀切と竪堀といわれます。津久井城の
          縄張りはおそらく内藤氏かそれ以前のものでしょうが、これらの堀切や竪堀は、
          永禄末から天正期にかけて後北条氏が命じて穿ったものと推測されます。堀切
          のうちいくつかは、山の岩肌を無理に削って作ったたいへん労力の要るものです。
          津久井城は、後北条氏時代の山城のようすをよく伝えている貴重な城跡といえ
          るでしょう。
           城山へはバスで津久井湖畔から登れますが、個人的には車で訪れることを
          推奨します。根小屋一帯は県立公園として整備され、駐車場(パークセンター)
          や管理棟、トイレなどが完備されています。ちょうど管理棟のあたりに、近世の
          陣屋があったとされています。

           
 パークセンターから津久井城山を望む。
本城曲輪のようす。 
 本城曲輪の土塁。
本城曲輪から米曲輪を望む。 
そのむこうには津久井湖が見えます。 
 太鼓曲輪のようす。
 奥に土塁が見えます。
太鼓曲輪下の家老屋敷。 
 太鼓曲輪北の堀切。
 当時は曳橋が架かっていたといわれています。
飯縄曲輪と飯縄神社。 
 飯縄神社南の狼煙台とみられる曲輪。
 宝ヶ池。 
 鷹射場のようす。
鷹射場からの眺望。 
 車坂(曲輪坂)から堀切を望む。
御屋敷を望む。 


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