土屋館(つちや) | |
別称 : 土屋城、土屋宗遠居蹟 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 土屋宗遠 | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : 小田急線秦野駅よりバス 「庶子分」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 中村荘司宗平の三男土屋弥三郎宗遠の居館と伝わる。宗遠は治承四年(1180)の 石橋山の戦いで、兄土肥実平ら中村一族とともに源頼朝方として参戦した。しかし、 戦いは頼朝方の惨敗に終わり、嫡子宗光を失った宗遠は、実平とともに頼朝に従って 安房へ落ち延びたとされる。その後、再挙した頼朝の幕下ではたらき、鎌倉幕府の 有力御家人となった。 建暦三年(1213)に和田合戦が勃発すると、宗遠の姉が三浦氏庶流の岡崎義実に 嫁ぎ、義実の子義清が宗遠の養子となるなど三浦氏と緊密な関係にあったことから、 土屋氏はじめ中村一族の多くが三浦一族の和田氏に属して敗れ、土屋氏も没落した。 『鎌倉大草子』によれば、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱に際して、土屋氏 は中村氏や土肥氏とともに禅秀に同心した。幕府・持氏方の今川・大森軍が「曽我 中村を責落し」たとあり、土屋郷も同様に両氏によって制圧されたものと推測される。 同郷は大森頼春に与えられ、土屋氏遠・景遠父子は縁戚関係のある甲斐武田氏を 頼って落ち延びた。土屋館がいつまで存続していたかは不明だが、遅くともこのとき には廃されたものと思われる。 ちなみに武田家臣には、天正十年(1582)の滅亡時に最後まで忠節を尽くした、 「片手斬り」で知られる土屋昌恒がいる。昌恒の遺児忠直は後に徳川家康に仕え、 土屋氏は譜代大名として明治維新まで続いた。しかし、昌恒は武田氏支族金丸氏の 出身で、土屋氏の名跡を継いだため景遠との血縁はない。景遠の直系子孫は、別に 旗本として江戸幕府に仕えた。 <手記> 土屋館は金目川上流の支流座禅川の谷戸にあり、『新編相模国風土記稿』によれ ば、「宗憲寺境内」にあったとされています。宗憲寺は明治初年に大乗寺に合併され、 廃寺となっています。その場所は字庶子分の南側に開いた丘陵の裾にあり、三方を 峰に囲まれた典型的な館地形といえます。土屋は七国峠を越えて二宮と金目および 伊勢原を結ぶ街道筋にあたり、交通の要衝にあったものと思われます。 館跡西端には、土屋一族の墓とされる墓石群があります。墓の脇と、その裏の峰上 に、土屋氏と土屋館に関する説明板が建てられています。館跡とされる一帯は畑地と なっていて、遺構の確認は困難です。説明板によると、「字大庭」と呼ばれる地点から 郭状遺構が発見されているということです。また、墓石裏の館西側の尾根先に、人工 の切岸状の部分が見受けられます。館附属の城郭遺構とも思われますが、表面観察 からは何ともいえません。 館跡へは、県道77号から神奈川大学に入る交差点に「土屋一族の墓」への標識が あり、これを辿って大学とは反対方向へ進みます。途中から尾根を上る山道となり、 先の峰上の説明板に至ります。さらに尾根上まで登りきったところに、「土屋城址」の 説明板と標柱があります。現地の説明板では麓の居館部を「土屋館」、山上の詰城部 を「土屋城」と分けているようです。ただ、山上部は緩やかで広い地形で、ここにそれ ほど本格的な城塞が設けられていた可能性は低いと思われます。おそらくは単純な 物見施設程度のものだったのでしょう。 なお『日本城郭大系』では、土屋氏の館跡として可能性のある地点に、さらに上流の 芳盛寺も挙げています。芳盛寺は建仁四年(1202)の開山時の号を「土屋山」といい、 宗遠の菩提寺としています。寺伝によれば、応永二十三年(1416)に、小田原城主 大森芳盛が自身の菩提寺と定め、現在の寺号に改めたとされています。大森芳盛と いう人物については不明ですが、応永二十三年は大森頼春が土屋郷を得た年なので、 頼春を指すものとも考えられます。 芳盛寺は座禅川沿いの小高い尾根先にありますが、三方は急峻な崖で、館という より小城郭のような感じを受けます。あるいは土屋氏時代の最奥の詰城があったとも 考えられますが、現状からは何ともいえません。 |
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土屋館跡のようす。 | |
土屋一族の墓。 | |
尾根上の土屋城址説明板と標柱。 | |
土屋館西側の尾根先にある切岸状の部分。 |