木曽谷における城砦様遺構をもった神社等の施設一考


  1、はじめに

     私は数年前から、中山道の歩き旅を断続的に進めています。とはいっても、当記事の執筆時点でようやく中間地点を

    越えたばかりです。歴史つながりではありますが、城跡巡りとは一歩離れて純粋に歩き旅の風情を楽しんでいるつもり

    です。しかし、やはり付近に城跡があると、余裕のある旅路ではないことも忘れて寄り道してしまいます。

     木曽路は「すべて山の中」といわれる通り、木曽川の両脇に山塊が常に迫り、平地はごくわずかです。城跡巡りの目

    で見ると、木曽谷は中山道の縦断する要衝であり、また要害性に優れた築城の適地も数多くあるのですが、意外なこと

    に今に伝わる城館跡は驚くほど少ないといえます。とくに、まともに兵が籠って戦うような城は、福島・須原・妻籠の

    3ヶ所くらいにしかありません。

     こりゃあ道歩きに専念できるわいと思って歩いていると、街道に面したいくつかの神社やお堂が目にとまりました。

    周囲は明らかに人工の切岸や堀状地形に囲まれて、ちょっとした砦のようになっているのです。もちろん、そのような

    神社やお堂は全国各地至る所にあり、そのすべてが砦跡であるなどというつもりはありません。ただ、木曽という特殊

    な地勢を考えると、これらが何から城砦に准ずる施設である可能性を指摘できるように思われるのです。

     なにぶん直感に過ぎませんので、「そんなのおたくの気のせいでしょ」といわれてしまえば、すでにそれ以上の反論

    は厳しくなってしまいます。当の私も、あれもこれも城跡ではないかという意見に対してはどちらかといえば冷淡な方

    で、普段は何でもかでも遺構に見えてしまう人たちについては、批判的な立場にいます。ですので、そのような人たち

    と同じ目線で語っているのではないということは、ご承知おきいただければと思います。


  2、木曽には中世城館が少ない

     そもそも、木曽谷にはなぜ中世城館跡が少ないのでしょうか。理由として一番に考えられるのは、『古今沿革志』に

    「木曾中谷を城となす」とある通り、木曽谷そのものが要害であるため、わざわざ城を築く手間は必要なかったとする

    ものです。たしかに、天正十年(1582)には木曽義昌勢が数で勝る武田勝頼軍を鳥居峠で破ったといわれており(鳥居

    峠の戦い)、木曽は城ではなく天険で守るという意識が根底にあったのかもしれません。

     ですが私は、もう1つ大きな理由があったと考えています。それは、木曽谷は陸路が険しすぎて、大軍を有効に展開

    することができない地形であるという点です。元亀三年(1572)に、美濃を領する織田信長と信濃を領する武田信玄が

    敵対して以降、両者の係争の地となったのは、現在の中山道沿いにある妻籠や中津川ではなく岩村城でした。これは、

    信濃から美濃へ侵攻する際、信玄は木曽路より緩やかで大軍の展開や補給が容易な伊奈路を行軍ルートとして利用して

    いたためです。ちょうど、現在でも中央自動車道が伊奈路を抜けて飯田から中津川に通じているのと似ています。天正

    十年(1582)の信長による武田攻めの際にも、すでに木曽義昌が織田方に寝返っているにもかかわらず、織田軍はまず

    伊奈の飯田城の攻略に取り掛かっています。

     歴史上、万の人数を擁して木曽谷を通過したのは、確実なものでは関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠軍と、幕末の皇女

    和宮降嫁の行列のみです。武田攻めのときの信長自身の信濃入国ルートは定かでありませんが、岩村城に在城していた

    とされるため、やはり伊奈路を通ったものと推測されます。和宮降嫁の行列は軍隊ではありませんが、大人数が木曽路

    を通った貴重な記録といえます。伝えられるところによると、行列の人数は3万人におよび、先頭がある宿場に着いた

    とき、後尾はまだ2つ3つ後の宿場にいたとされています。行列は最大で50qの長さに達したといわれ、普通に考えると

    ちょっとあり得ない数字に思えますが、あるいは木曽谷では、それに近い長さにまで間延びしていたのかもしれません。

     このように、歴史上木曽谷で大軍が戦ったという記録はなく、寡兵をもって大軍を引きつけておくための整った城は

    そういくつも入用ではなかったと考えられます。  


  3、城より下位の施設

     とはいえ、大軍が攻め寄せる心配が少ないからといって、また天険の地形全体を城とすれば良いからといって、防御

    施設を設けなくても良いとは、必ずしもならないでしょう。中小規模の軍は攻めてくるかもしれませんし、東西を結ぶ

    要衝には違いありませんから、誰でもお好きに通行してよいというものでもありません。

     近年、「村の城(藤木久志氏)」や「村人の城(中田正光氏)」といった城の見方が提唱されています。とくに定義

    があるわけではないようですが、一言でいえば「村人の自衛のための城」といったところのようです。村人に限らず、

    城砦の使用者や建設主体、用途などの範囲は、より多様に認められるようになってきました。私が木曽で見かけた城砦

    設備をもつ神社やお堂は、規模などからみれば「村人の城」に分類するのが妥当だと思われます(本当に城砦に准ずる

    施設であるならば、ですが)。ただ、主体を「村」に限定せずとも、たとえば関所や検閲機関など、領主によって建設

    された城よりワンランク下の施設であると考えることも可能です。


  4、木曽谷の城砦様施設跡

     前置きが長くなりましたが、くだんの城砦施設に見える物件を紹介していきたいと思います。


    @馬籠の峠集落の熊野神社

     馬籠宿と妻籠宿の間に馬籠峠があり、峠のすぐ南(馬籠側)に「峠」集落があります。ここは、明治時代くらいまで

    は、住民全員が馬方(長距離運搬業者)であったといわれています。この集落の北端に鎮座する熊野神社は、街道から

    石段を上った先にあり、上下2段になっています。

       
                           熊野神社    
    

     かといって、この境内が削平地跡であるとか、石段が切岸であるとかいうことではなく、注目すべきは神社の背後に

    あります。そこは、自然地形にしては不自然な切れ込みとなっており、直感的には人工的に堀り切られたもののように

    見えます。すなわち、街道に面した西辺と集落を向いた南辺、そして堀切状になっている北辺の少なくとも3方が斜面

    となっています。残る東辺には県道7号線の車道が走っており、旧地形がどうであったかはさだかでありません。


       
                      神社背後の堀切状地形   

     もしこれが、本当に人工の掘り込みであったとすれば、神社にはまず不必要な設備です。したがって、この熊野神社

    が、神社以外の何らかの役目をもった施設であった可能性が大きく浮上すると思われます。ちなみに、すぐ目と鼻の先

    に馬籠峠があるので、純粋な防衛の為であればこの峠の稜線を使えばよいことから、主目的は防衛以外にあったとみる

    べきであると思われます。     



    A神戸(木曽福島)の御嶽遥拝所

     御嶽遥拝所とは、御嶽信仰に基づくもので、御嶽を望んで拝むための施設です。中山道沿いには、この木曽福島の南

    に位置する神戸集落と、鳥居峠の大きく2ヶ所にあります。大きく2つとしたのは、中山道沿いで実際に御嶽を望むこと

    が出来るのが、神戸と鳥居峠の2ヶ所だけだったからです。

        
                     御嶽遙拝所跡の御嶽神社

     神戸の御嶽遥拝所は、山肌からポッコリと突き出た小丘に建てられており、中山道は山肌と遥拝所に挟まれる格好で

    通っています。遥拝所の丘の他の三方は斜面となっており、小さいながらも要害地形となっています。丘の上を歩いて

    みると、街道と反対側1段下に、もう1つ削平地が付属していることが分かります。この削平地は、神社にしては不自然     といえます。      
        
                     遥拝所1段下の削平地を望む
     また、一番不自然なのは、私が歩き回った限り、この遥拝所からは肝心の御嶽山が見えないということです。付近で

    御嶽山を望むには、遥拝所から少し南へ歩かなければなりません。さらに、もう1つの遥拝所である鳥居峠の御嶽神社

    境内は、鳥居峠砦(藪原砦)跡であるといわれています。したがって、木曽氏の本拠木曽福島の入口にあたるこの神戸

    の遥拝所が、もう1つ関所としての顔をもっていたとしても、不思議ではないように思われます。     

        
                    遥拝所から麓を通る中山道を望む 

     

    B平沢の諏訪神社

     平沢漆器で知られる平沢集落の北端に、諏訪神社があります。この神社は、山肌から木曽川に向かって大きく舌状に

    せり出した丘の上に鎮座しています。中山道は、この神社の丘を大きく迂回して通っており、要害とまではいえません

    が、交通を完全に掌握できる要衝にあります。もったいないことに、このときにわか雨に降られたのと、時間的に先を

    急がねばならなかったということで、神社には参らずに進んでしまいました。ですので、丘の上がどうなっているのか

    については分かりません。ただ、木曽からみて外側にあたる北側の斜面は、やや切岸状に険しくなっているように感じ

    ました。ここは、厳密にいえばすでに木曽谷ではありませんが、戦国期の木曽氏の最大版図である贄川・奈良井の中間

    に位置しています。


       
                残念ながら、神社の写真は撮っていません。
                 この斜面の上に諏訪神社があります。

  5、おわりに

     以上、3つほど比定地をあげさせていただきました。少ないようですが、可能性がかなり高いと思われるものを厳選

    した結果です。さすがの私も例にもれず、こうした疑わしいところを見て歩くうちに、「これもそうではないか?」

    「いや、これも!」とあれもこれもそういった遺構に見えてきはじめてしまったので、この記事を書きながら自戒して

    いる次第です。

     あくまでも通りすがりの直感に過ぎないので、現地をもっとじっくりご覧になった方からご批判があれば、甘んじて

    受けるよりほかありません。また他方で、こういった推測は、イエスともノーとも立証しようがないものでもあります。

    すなわち、発掘調査によって建物跡等が検出されたとしても、それが宗教施設や民家の跡なのか、あるいは城砦や関所

    のものなのかは、判別が非常に困難です。単純に城とするなら、城に特有な堀や土塁などの痕跡を見つけることで立証

    が可能ですが、城の下位施設である「村人の城」や関所等には、必ずしもそういった高次な防御設備は必要ではありま

    せん。

     ただ、私がここで試みたような指摘が、まったく無意味であるとも思えません。とくに、前述のとおり中世城館跡が

    比較的に少ないという特徴をもつ木曽谷のような地域においては、それに代わる、あるいは准ずる施設の存在を考慮に

    入れてみるということが、地域理解に大きく寄与するのではないかと、個人的には考えています。

     今回も、一個人の思い付きに最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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