内出城(うちで)
 別称  : 太田城、川戸内出城
 分類  : 平城
 築城者: 秋間氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR吾妻線群馬原町駅下車徒歩20分


       <沿革>
           一般的には吾妻氏家臣秋間氏によって築かれたとされているが、築城の経緯については
          不明な点が多い。貞和五年(1349)に里見氏一族の里見義時と吾妻行盛が戦った際には、
          内出城は里見氏の城であったとされる。もともと、里見義基の次男氏義が内出城に拠ったと
          いわれるが、詳細は不明である。この戦いで行盛と秋間貞勝は戦死し、貞勝の子泰則らは
          行盛の遺児千王丸を伴い、安中の斎藤梢基を頼った。
           千王丸は、梢基を烏帽子親として斎藤憲行と名乗り、延文二年(1356)に山内上杉氏や
          榛名山の僧兵の助力を得て里見氏を滅ぼし、旧領を回復した。『郡内旧記』によれば、憲行
          は泰則に太田庄を与え、城を築かせたとある。太田庄とは内出周辺のことを指すため、泰則
          に築かせた城とは、すなわち内出城であると考えられる。
           他方『加沢記』によれば、貞治元/正平十七年(1362)のこととして「吾妻太郎藤原維光
          とて太田庄に居住ありけるが、(中略)居城の鬼門反辺と申処に新たに一宇の道場を建立」
          とある。この記述が正しければ、内出城には秋間氏以前に吾妻氏が拠っていたことになる。
          ただし、吾妻維光なる人物については不明である。憲行は、川戸内出城に吾妻氏の子孫を
          押し込めていたとされ、あるいは維光はこの子孫にあたる人物かもしれない。
           しかし、千王丸は自身が吾妻氏であり、千王丸が斎藤憲行となって吾妻氏の子孫を押し
          込めるというのは不自然である。この点について、岩櫃城主斎藤憲行は越前国の住人斎藤
          越前守基国の子越前守憲行であり、千王丸とは別人であるとする説も唱えられている。この
          場合、内出城に押し込められた吾妻氏とは、千王丸の子孫であるとも考えられる。
           長禄年間(1457〜61)、内出城は群馬郡の長野氏に急襲されて落城し、城主で泰則の孫
          泰近も討ち死にした。内出城はその後斎藤氏方によって奪還されたようだが、泰近には嗣子
          がなかったため、秋間氏は断絶し滅亡した。ただし、滅ぼしたのは稲荷城主大野氏であると
          する異聞もある。また、このころの長野氏については動向が定かでなく、秋間氏滅亡の経緯
          については疑問も多い。秋間氏滅亡後の内出城については不明である。

       <手記>
           内出城は、吾妻川南岸の河岸上に築かれた城です。字名が内出であるため内出城と呼称
          されますが、「内出」とはそもそも城を意味する言葉なので、当時は「太田(の)城」あるいは
          「川戸内出」と呼ばれていたものと思われます。
           北西端を本丸とし、その外側を逆L字型に二の丸が囲っています。二の丸の東には、堀で
          隔てられた区画状の曲輪が4つほど並んでいます。二の丸の南東端はクランク状に堀が折れ
          ていて、虎口を兼ねた堀底道となっていたものと考えられます。二の丸の東側の曲輪群も、
          堀跡がそのまま道路になっているようで、全体の縄張りの把握は容易といえます。
           城の南面と北東辺の外郭線の土塁は、地形としてほぼ完全に残っています。二の丸南辺
          には横矢状の張り出し部があるのですが、これも地形として残っています。あまりにも良好
          かつ全体的に残っているので、当初は城の遺構と気づかないほどでした。
           本丸の南西には、物見あるいは詰曲輪と思しき2つの小さな曲輪があります。どちらも2段
          程度に削平され、面積はさほどありません。両曲輪は周囲を堀に囲まれて互いに独立して
          いて、やはり遺構が良好に残っているため、大きな見どころのひとつとなっています。
           内出城は、資料や伝承上は15世紀の秋間氏滅亡時点でフェードアウトしている城です。
          ですが、現在に残る遺構や縄張り、規模などを勘案すると、その後も真田氏前後あたりまで
          は継続使用されていたことは間違いないと思われます。倉渕〜大戸〜中之条と至る吾妻川
          南岸ルートの要衝にあるため、秋間氏滅亡後も斎藤氏や真田氏によって管理されてきたの
          ではないかと推測されます。

           
 本丸南西の曲輪の段築遺構。櫓台か。
南西端の曲輪。 
 南西の曲輪の空堀。
本丸のようす。 
 本丸と二の丸の間の空堀。
二の丸南辺の張り出し部(画面中央付近)。 
 外郭南辺の土塁と堀。
二の丸南東端のクランク状の堀。 
 外郭北東辺の土塁。


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