稲荷城(いなり) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 吾妻助亮か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、虎口 | |
交通 : JR吾妻線群馬原町駅徒歩15分 | |
<沿革> 地元の伝承では、吾妻太郎助亮が建久年間(1190〜99)に居住していたといわれる。 助亮の子助光は、承久三年(1221)の承久の乱に際して宇治川で戦死し、同族の下河辺 行家が吾妻氏を継承した。行家の子行重もまた、稲荷城に住んだと伝わる。だが、吾妻氏 が稲荷城を築き居住したとの説は伝承の域を出ず、確証はない。 15世紀初めごろ、岩櫃城主斎藤憲行は、五男大野次郎憲基を稲荷城に配した。これが 中世稲荷城のはじまりである。大野氏は次第に勢力を伸ばし、岩櫃城の本家を支配下に 置くようになった。憲基の孫の義衡は、ついに岩櫃城に居を移して本家に取って代わった。 その後の稲荷城については詳らかではない。 大野氏は、後に同族の岩下城主斎藤憲次に岩櫃城を急襲され滅んだ。その斎藤氏も、 永禄六年(1563)に真田氏に吾妻を逐われた。稲荷城のその後については不明である。 <手記> 稲荷城は、四万川と須郷沢川の間に細く伸びた丘陵の先端付近にあります。稲荷城は、 舌状の台地上に築かれているにもかかわらず、主郭がその先端にないという特徴をもって います。主郭は、先端から少し入ったところに崖端の館のように設けられ、その周りを堀と 副郭がめぐっています。縄張りだけを見るなら、武蔵国の石神井城などと類似しているよう に思われます。どちらも鎌倉時代の築城と伝えられるあたりは、興味をひかれるところです。 碑も案内板もありませんが、民家の裏手にひっそりと豪壮な遺構を残しています。とくに 主郭の土塁とそれを取り巻く空堀は見事です。主郭外側の副郭にも、ところどころを仕切る 堀が明瞭に残っています。 現在残る遺構を見るに、大野氏が岩櫃城に移った後も、稲荷城が改修されて継続使用 されていたことは間違いないように思われます。あるいは、岩櫃城が真田氏に落とされた 後も、嵩山城に退いて抵抗を続ける斎藤氏に対する備えとして、しばらく利用されていたの ではないかと個人的には考えています。 これだけの遺構を伝えながら、碑も説明板もないのは残念で仕方ありません。そもそも 主郭へ至る道が分かりづらく、東麓の稲荷神社西側から畑の脇を、次いで民家の裏手の 土手道(おそらく土塁の跡)をはばかりながら進んでいくと、杉林の向こうに主郭の土塁が 見えてきます。 |
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主郭の虎口跡。 | |
主郭東側の土塁と空堀。 | |
主郭のようす。 | |
同上。 | |
主郭西側の土塁と空堀。 | |
東南麓の稲荷神社。 |