上原館(うえのはる)
 別称  : 大友館、西山城
 分類  : 平山城
 築城者: 大友氏
 遺構  : 土塁
 交通  : JR久大本線古国府駅徒歩15分


       <沿革>
           上原館は、近年まで鎌倉時代末期〜南北朝時代初期に大友氏泰によって築かれ、桃山時代
          の大友義統(吉統)改易に至るまでの、大友氏累代の居館と考えられてきた。したがって、天文
          十九年(1550)の二階崩れの変の舞台ともされてきた。
           しかし、上野丘北麓の顕徳町一帯で大規模な中世の館遺構(大友氏館)が発掘され、少なく
          とも、室町時代中期以降の大友館の中心はこちらにあったものと推定されるようになった。大友
          氏館と上原館の関係や、両者の存続期間などを含めた上原館の位置づけについては、今後の
          研究に改めて委ねられることとなった。

          
       <手記>
           上原館は、西から延びる丘陵が大分川にぶつかる先端付近に築かれた館です。当時は桝形
          を備えた方形館だったようで、現在は南辺の土塁が残っており、ここに城址碑や説明板が設置
          されています。典型的な崖端の館で、北に大分平野と別府湾、南麓には古国府の地名の通り
          豊後国府がおかれていました。
           上述の通り、近年では少なくとも宗麟前後の時代の大友館は北麓の顕徳町一帯にあったと
          されており、上原館の役割や存続期間については留保が必要となりました。上原館は、立地の
          うえからは鎌倉時代から室町時代初期の武士の館の地形であるといえます。
           したがって、個人的な直感としては、氏泰以前の大友氏の居館は上原館であり、南北朝時代
          以降、平地の大友氏館へと移ったものと推測されます。その後も、上原館はサブの城館として
          残ったものと考えられますが、どのような役割を担っていたのかは分かりません。

           
 上原館跡に立つ「大友屋形址」碑。
南辺の土塁。 
 桝形のあった大手口のようす。


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